太閤記に関する覚書 9 Index / Top
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 昨夜のTV「時空警察」おもしろかったですね。4話あったと思いますが。(1)赤穂浪士、吉良は生きていた!(2)飛行船ヒンデンブルグはドイツ自身のテロで爆破!(3)聖徳太子は切支丹であった!(4)大統領が真珠湾攻撃を知ったわけ!でしたか? どれも歴史上有名な出来事へ証拠を積みながらの新解釈を加えたもので、楽しく拝見しました。でも、それがほんとうとしたら、頭の切り替えができるだろうかと心配です。長い間培われ信じていたものは強力ですからね。

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 桃山文化を調べてみました。やはり、主として美術史の分野で使用される時代名称で、その場合江戸時代初期も含むそうです。桃山とは、大阪城とともに秀吉居城となった伏見城が、関が原の戦いで廃城となったあと、桃の木がその地に植えられたことからそう呼ばれるようになったそうで、当時使われていた言葉ではないそうです。もし、梅が植えられていたら「梅山文化?」栗なら「栗山文化?」になっていたかも知れません。

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 九鬼嘉隆(くきよしかた)、なんかすごそうな名前です。海戦の実力では瀬戸内の村上海賊衆、九州の松浦党などにはおよばなかったそうですが、大阪湾での石山合戦で、当時最強と言われた村上海賊衆を撃退し、一躍日本一の名声を得たそうです。海賊というと、英国や北欧にもその歴史があったと思います。興味がありますから、少し調べてみたいと思っています。

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 豊太閤さんと言えば大阪。大阪の地は、古代には難波とよばれ、大陸交通の門戸として大陸から進んだ文化が入ってきました。大阪城近くに難波宮跡があるそうです。中世、大阪城付近の石山の地に石山本願寺が建立されてから門前町として発展。そのころ、地名は小坂と呼ばれ、後の大阪の名の起こりとなりました。最初の小坂は小さくてはダメなので「大坂」へ。さらに「坂」も縁起が悪いと言うことに。なぜかといえば「土」偏に「反」では、土に返る、死をイメージさすとの理由であったと、そこで「阪」の字になったそうです。これに対し、江戸はどうでしょう。荒川の下流地域に広がる低地帯を「東京低地」と呼んでいるそうです。この東京低地の地名には、江戸、今戸、奥戸など戸のつく地名が多く、またこの戸のつく地名の歴史をたどると、中世には戸と書かず、津と書かれていたそうです。戸は「津(船着き場)」の意味であり、こういったところから、江戸の名前が生まれてきたと言われているそうです。地名一つにもいろんな歴史があるのですね。

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 大阪の名のいわれはおもしろい。そう言えば自分の郷土の「福井」のいわれは「福の井」伝説とか聞いていました。しかし、なんと幕府の書き間違いなどによって現在の福井の名がと知りました。もともと古くから北庄と呼ばれていたのを、江戸時代、松平忠昌城主となったとき、柴田勝家が豊臣秀吉に負けたこともあり、北は敗北の北だとばかり縁起をかついで 「福の居すわる町」で「福居」にしよう!とこの名が公式になったそうです。長い間にいつか幕府の文書に誤って「福井」と書かれ、それが定着し現在に至っているとか。確かにだれか上司のエライさんが間違って何か書いたとしても、そーっとそのままにしておくって、ありそうな話ですね。ということは、地名って絶対的なものじゃなく、住む人が話し合って自由に決めていいものだと思いました。頭が少し柔らかく、みなさんの県名はいかがですか。

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 ろくに仕事もしなく酒びたり、ある日50両入り財布を拾いおおばん振る舞いをして寝てしまったとか。翌朝「もう仕事はしない。あれだけの金があるからな」「オマエさん夢でも見たのかい」 と女房。衝撃を受けた魚屋は人が変ったように働いて表通りに店をだすまでに。おおみそかの夜、「あれは夢ではなかったのさ。おまえさんを三年もだましていました」と汚い財布と50両だすおかみさん。(こんな話が今朝の朝刊に)秀吉が大判を作ったことは「天正大判」として写真で見たことが。おおよそこの頃の時代1両とはいかなる値打ちだったんでしょうか。魚屋の人が変ったのはどれくらいのものなんでしょうか。金1両を現在の価値に正確に換算することは、不可能だといわれていますが、米価で推し量る方法によれば、金1両=4万円と言われているそうです。天正の頃は10万円とも。すると、この魚屋さんは200〜500万円ほどを拾ったことになるんでしょうか。なお、元禄13年(1700)金1両=銭4000文で、そば1杯が6〜16文とありました。1両あれば250人もの年越しそばが賄えたということになりそうです。

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 「初夢や太閤秀吉ナポレオン」という句があるそうです。どういった背景で作られた句かは知りませんが、きっと大出世を夢見ていたのでしょうか。1月1日の夜から2日の朝にかけて見るのが初夢とする意見が強いようです。ということは、今から見る夢が初夢ですね。「年暮れ春来べしとは思ひ寝に まさしく見えてかなふ初夢」西行の句。これでは大晦日に見る夢と想像しますが、どうやら江戸期に前述のようになっていったみたいです。よく空を飛ぶ夢を見ます。夢占いによると、大変よい夢と言われているそうですが、身の回りに特別よいこともなかったようです。どんな夢を見ようか決めて寝るとよいそうですから、「富士山」を思い浮かべると、どうでしょうか。秀吉は夢ではなく、現実に人の手に入れることのできる最高峰に登りました。しかし、最後の「・・・夢のまた夢」 がこの世で起きる全てのことが結局おおきな夢の中と言っているのでしょうか。では、よい『初夢』見てくださいね。「富士山」ですよ。

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 TVでおもしろい番組がありました。『浦島太郎』のほんとうの話とかでした。開けてはならない玉手箱を開けてしまった浦島はおじいさんになったそうですが ほんとうの話は その後『鶴』になって、また竜宮城へ。乙姫さまに口をとんがらせて文句を言うんですね、すると、乙姫さまが言うには、あなたはここで実は700年もの間過ごした。亀であった乙姫と鶴になった浦島はあと300年仲良く 暮らしたそうです。(鶴は千年?亀は・・・!)明治になって、「約束を守らないとだめですよ」と この後半は無くして伝わっているそうです。お市の方や秀次の伝わる話も、時間をへていろいろな解釈が加えられているかも知れませんが、これから調べてみようと思っています。ねねさまが、秀吉の浮気(本気?)に怒って問い詰めると、秀吉が おまえさまも浮気をして踊っていたそうではないか、と切り返すハナシを最近読みました。仲のよい夫婦は見ていて気持ちのよいものです。

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 《従臣の困労をかなしむこころなく・・・魚、鳥をころし夜は酒宴を暁を嫌いず淫乱不動の有さま・・・》とあります。しかし、この秀次は大変優れた武将との評もあり、ただ《秀頼公誕生のある後に、自ら我が位を退き秀頼の世を立て・・・》る才覚を持ち合わせていなかったことが秀吉、秀次双方にとって不幸なことであったと思われてなりません。また、《福島左衛門太夫 福原右馬助 池田伊予守三人の検使として高野山へ登り玉へける》秀次謀反の仔細を、益田右衛門 石田治部 富田左近がおこなっており《秀次公これに驚きて・・・》秀吉の近習に間を取り成す者のなかりしが、この悲劇となったのかも知れません。一度太閤になった秀次はどうしたらよかったのでしょう。権力も大きくなれば、肉親縁者の間もそれにつれどんどん距離が出来ていくものなのかも知れません。

 
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 羽柴秀俊は ねねの実兄木下家定の五男であり、幼少より秀吉 ねねにかわいがれていたが、秀頼誕生で小早川家に養子として出され、以後 小早川秀秋となる。もとよりねねの本意であるはずがありません。秀頼誕生の影響は、ねねにとっての血縁におよんでいたんですね。この秀秋が後の関が原の鍵を握っていたとなれば、ねねの影響下にあったとの想像はいたしかたのないことですね。(茶々姫に手をだすとは)大阪の陣のおり、家康の側室になれとの話しもあったとか、全くいやになりますね。この姫君のその時の言葉がうっすら記憶に。どんな言葉だったか、尊敬してしまいますよ。

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 秀次は少年のころから非常な学問好きであったと言われています。秀吉の養子となる以前から、宮部善祥、三好長康など由緒ある養家にて、学問を得、秀吉の強い庇護がありました。書も能くし、尊円親王流の書道であったとか。ところが、秀吉に秀頼誕生後は酒色に溺れていくようになったことは、どうやらほんとうのことであるようです。また明智光秀ゆかりの美女を側においたことも問題であったようです。石田三成は、この秀次の行状を探索する責任者であり、秀次側の反対の立場にたったことは事実のようです。これが ねね、北の政所との関係疎遠の発端となり、また秀次と親しい間がらの諸大名から深く怨まれる原因となったようです。この事件後三成は秀次所領尾張清洲21万石拝領の予定でありましたが、さすがにその件は 福島正則が領有することとなり、三成は佐和山城主に落ち着いたとあります。関が原は既に始まっていると言わざるを得ません。このとき、秀吉最後まで望みを託していた節があります。しかし、秀次が依頼の毛利輝元が書いた誓紙の案文が三成の手により、秀吉の目に触れるところとなり、秀吉のこころが一気に硬化したそうです。どうしてでしょう。いろいろ読んできましたが、秀次は、後成人する秀頼に匹敵する逸材であったように思います。まことに残念な気がいたします。

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 高台寺蒔絵の写真を見ています。この中に高台院(ねねさま)の像があります。例の頭に白い布をかぶった尼さんスタイルです。その姿がとっても美しく感じたので、なんでだろと。何と衣の下で右足を立てる、つまり立て膝というんでしょうか。そう言えばまだいろいろな場で、正座をすることがあります。以前は平気で1時間くらいはできたんですが、最近ではちょっとするだけで、足が痺れて困ります。楽々いすなるものがあり、後ろから見ると滑稽に思えたことも。宴会の席ではエライ人が挨拶するとき正座してお聞きし、すんだら まあお楽に、と膝をくずしたりします。そもそも正座とはなんでしょうか。「正座」の歴史は新しく元禄時代だそうです。幕府がそれまでの土下座に正座という名を付けたとか聞いたことがあります。えー「土下座」ですか。いやな感じですね。しかし何時の間にか大事な場に出向いた時は正座という慣習になってしまったんでしょう。利休も正座して?かな。最近いったご法事では、お寺の本堂の畳の上に赤い絨毯をひき、その上にイスが並んでおり、びっくりしました。しかしとても楽でしたよ。小さい頃きちんと正座していると、あら行儀のいい子、と言われませんでしたか? そうか「正座」は行儀がいいんだ、と染み付いてしまいました。長い歴史のなかでどれくらいの「坐」があるんでしょう。また日本の伝統といえるのでしょうか。興味が湧いてきます。

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 西陣の歴史、「自動織機によって大きな利益を上げ、富を得たと言えます。今日の不況をもたらした原因の一つに自動織機導入があります。作り過ぎたのです。皮肉なもので利益を上げたもので今度は多大な損失を出しています。」という一文に考えさせられました。便利な機械もいつまでも利益を出してくれるとは限らないんですね。機械と人との共存みたいなものがうまくできるといいんですが。話しは変りますが、田んぼで活躍するトラクターって800万円もするそうですね。5年で償却とか。農家の方のお話を横で聞いていて、大変だなと思いました。

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 和室の話題でもうひとつ、この時代から生け花(立て花)も盛んになってきますが、床の間に掛け軸を3幅掛けるときは、花の枝が長く伸びて真中の掛け軸にかかることを禁じているそうです。もともと花は仏前のものであったそうですが、一般に広まりその生活の中に取り入れられて座敷飾りとなったそうです。3幅の掛け軸は「三尊仏」と見なされ、真中の掛け軸は本尊となるそうです。このため、3人で写真をとる時、真中の人は早くあの世なんて冗談ができたそうです。

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 正座、具体的にどのように痺れを減じるかですよね。(1)膝を締め、やや前傾になる(2)膝頭をやや開く(3)かかとを開く。簡単に言えば、両足の親指同士が重なるような座り方をすると多少マシである しかし、重ねすぎてもいけない このさじ加減が素人には非常に難しい・・・。こうすれば大丈夫という、正しい正座の方法は存在しないということである・・・ですね。この間ある会で、皆さん平気な顔して正座されているようでしたので、すごいですねとお聞きしたら、声をそろえて とんでもない足が痛いと言われて、あとで足をさすっておられました。精神修養だ!と元気な方も。正座に関しては、確実に時代が変わってきているようです。

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 (真相の究明とは程遠い、)例えばみなさんがもし、当時天下人になられたらどうでしょうか。やはり自身が行なったイヤな部分は削って後世に伝えたいと思いませんか。まして当時権力者は生殺与奪の権を持っている訳ですから、下々は自身を危うくするようなものを棄却するは当然のことです。いみじくもご指摘通り「関が原」があったという事実を消す事はどんな権力者もできない訳で、配陣図などは残っていると思います。その配置などからいろいろ想像する以外実際ないのではないのでしょうか。そう言ったことから「関が原(司馬氏)」などは書かれているのでしょうが、我々が何の材料を持たないであるならば、そういった書籍に真実の片鱗を求めることはそれなりに意義のあることだと思いますが。また、それが書かれた背景、作者の意図がどこにあるかを見極めて読んでいけば、それなりの収穫が期待されると思いますが いかがでしょう。よく『武功夜話』の名前は出てきますね。前記のようなことから、おそらく全て真実が書かれているとは思えません。しかしその中にいくらかの真実はあるのではないかと思いますがどうでしょうか。現在姿を変えた戦いといえば選挙戦があります。戦国の命をやり取りする戦いとは比べ物になりませんが、人が何によって動くかがよく解ります。票読みなどをするとき、まず血縁、次に町内同級生など縁者、最後に欲でもって図って行く訳でしょう。いつの世も変らぬのは人のこころ。戦国英雄達のこころを自分のものとして考えられる歴史はおもしろいですね。

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 大名の生活とはどんなものでしょうか。「考証 武家奇談」の中に「招君の間」という章があります。これは、加藤清正が秀頼の為に熊本城内に作ったとされる部屋のことであると言います。この部屋のことなどは、またの機会といたしまして、この中に当時の大名の暮らしぶりが書かれています。大名は贅沢、我がまま放題の暮らしをしていたのでしょうか。今でも、大名暮らし、大名旅行、大名気分、温泉などでは大名膳などと その響きにはいかにも贅沢なものを感じてしまいます。しかし、どうやら普通人より質素で窮屈な暮らしをしていたのではないかといいます。「朝は焼き味噌に豆腐、昼晩1什2菜、台所奉行が騒ぐので多く食することも 少なく食することもままならない」そうです。子供と共に食事することもなく、脇息も座布団も日常生活にはなかったとか。只1つ、大名に生まれなければ許されず、庶民にはまねのできなかったことは多数の侍女、側室をはべらすことであったそうです。幕府は(江戸)将軍側室30人、大名10人、旗本5人ときまりを作ったそうですが・・・。何事もお家大事なんだからでしょうね。しかし大事なお仕事、、の為にはその食事は眉唾だなーと思いながら戦国の世を思い浮かべ思いつくまま。

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 「花、美への行動と日本文化」に桃山一期の花、として『辻が花』のことが紹介されています。《誰が名づけたのかわからない。なぜそう呼ぶのか、それもわからない。誰が作ったのかももちろん知るよしもない。しかし見事な衣装である・・・で始まっています。辻が花は絞りを主体とした草木染め・・・それなら小学生の頃家庭科?でやったような記憶があります。ところが、日本染色史上に最も格調の高い美しさを誇った、この『辻が花』が、桃山時代約一世紀余りを最後にその生涯を終えたとあります。ですから残っているものも少なく、薄命の美女のようであると言われるそうです。「日本の花」の心を表明しているにいたっては最高の賛辞ですね。しかもこれほど美しいとされる『辻が花』が桃山時代を一期として開花し、日本人の心の花が、いさぎよく?散ったのはどうしてでしょうか。

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 今日は初釜と、七草粥のニュースが流れました。お茶はここで少しかじりましたので興味深く見れました。七草粥のニュースではアンケートにほとんど(ゼロ!)の方が食べていないと回答していました。七草?なにとなに?心配ご無用、量販店でセットで売っているんだそうですよ。さて、高野山といえば先ほど秀次の話題にもありましたが、弘法大師で有名ですね。戦国の世には木食上人が活躍された場所であったと思います。木食とは、米穀を断ち、木の実を食して修業することで、そのような僧を木食上人と呼ぶんだそうですが、この頃、木食上人と呼ばれたのは、高野山の客僧応其(おうご)でありました。ですから、木食応其と言われると知りました。高野山を焼き討ちから救った縁で、秀吉の帰依を受け、秀吉から「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべき旨、各衆僧に申し聞かすべし。」とまで惚れこまれたようです。当然、豊臣家の墓地となりましたが、現在碑銘によって確認できるのは、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、それに淀君の逆修碑と推定されるものの六基だけで、秀吉の墓も北政所ねねの墓も見当たらない、とあります。逆修碑って? また秀吉、ねねの墓がない訳はどうしてでしょうね。関が原以降応其上人は、豊家に近い自分がいては高野山に類がおよぶと下山したそうです。この地を深く愛していたんでしょう。

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 逆修碑とは生前に死後の安楽を願って建てる碑とありました。とすれば、淀君は生前にここ高野山へ墓を作っている?実際は大阪にあると聞いたことが。淀君は豊家のみんなが眠るこの地へ自分も埋葬されることを、望んでいたんでしょうか。秀頼の墓はいろいろみたいで、九州にあるという説もあるんですね。またその内調べてみようと。秀吉、ねねの墓は昭和に入ってようやく高野山に帰ったそうですが、これももう少し調べてみたいと思います。何かこの時期 墓の話しでひんしゅくを買いそうですが、福井には、結城秀康の墓があり、歴代松平の墓が建ち並ぶ千畳敷という墓所があります。このすぐ、近くにペットを祀る場所があり、私のかわいがっていたワンちゃんが眠っています。横へそれましたが、この千畳敷の墓だけはほんとうに圧巻であり、さすがにあまり驚かない私も始めて見たときは思わず声が出ました。その大きさと整然と向き合い並ぶ様、その場所の静かな時間の流れ空気は言葉では言い表せませんし、写真では伺いしれないものでした。

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