太閤記に関する覚書 11 Index / Top
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 本能寺の変の不思議、天正10年6月2日早朝5時頃、本能寺の変勃発とあります。二城御所信忠との戦闘を含め、同午前9時戦闘終了であったと申します。(1)この時正親町天皇の皇太子を御所から逃がしています。しかもその為一時の休戦を信忠と結んだとあります。本能寺はいきなりの闇討ちであり、御所への攻撃との間になんとも悠長な違和感を感じませんか。(2)家康このとき泉州堺にあったと言います。変を知り、わざわざ京へ行っています。しかも、切腹をすると言って智恩院へ行くなど行動にとても不思議なものを感じます。難儀な伊賀越えなど聞いてはいますが、何故京に入ったのかは疑問です。(3)秀吉に大義があるのであれば、そう急がずとももっとじっくり味方を待って光秀を討てばよいであろうに、秀吉が戦を急いだのは何故でしょうか。勝家の合力をまたなかった訳は、仲が悪かったというだけでしょうか。この時間ともなれば、いろんな妄想が浮かんでは消えて行きます。みんな(天皇も光秀も家康も勝家も)呉越同舟であって、光秀が見逃したと考えればつじつまが合うんですが。蚊帳の外にあったのは実は秀吉ばかりなりというのは暴論になるのでしょうか。天正10年6月13日天王山の戦い、この間約10日間、光秀の天下を俗に「三日天下」というのはどうしてなんでしょう。

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 「道」とつくものは茶道、華道にしても多くの人が通るから「道」となるそうです。いけばなに限らず多くの「道」はおとこのものであったのは、やはりその「道」の中での身分の撤廃が魅力であったのではないかとおもいます。身分制度への反発もあったかも知れないとも思いますよ。「元寇」以来、おとこ社会になったことも原因の一つだと思いますが・・・・。また、戦国期などを見て驚くのは、女性の結婚時期の早いことです。花嫁修業などできる時代ではなかったのでは? 婚期のどんどん遅くなる今「道」を歩くは女性の姿ばかり多く目につきます。

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 ほんとうに、本能寺にはいろんな説があるんですね。秀吉犯人説まであるとは驚きを通りこして、人間の偉大な想像力の前に乾杯の気持ちですね。・・・なんて言っていたらそれが一番の有力説であったらどうしましょう。あと、三日天下は・・・13日間でしたね。光秀にとっても、もちろん秀吉にとっても長い13日間であったと思います。英雄の胸中とはどんなものなんでしょうか。影武者と言えば映画があったと思います。黒澤監督で仲代達也であったと記憶しています。やけにきれいな画面であったと。

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 「わしは悲しめば悲しむほど、腹がへるのだ」ほんとうに、確か鹿の肉、鳥の肉はないか。ニンニクはないか、など大声で、自分は齢であるから、戦を控え体力をつけなければならぬ。髪のほうはわしが切るから、精進のほうはそなた達でせよ・・・ちゃっかりと信長目付けの堀久太郎などに任せ、しっかり食したそうですね。秀吉が成すことにはこういったことに、暗さを感じさせません。また、高山右近、中川瀬兵衛などが人質をつれて挨拶にきても、その子供(人質)を抱き上げ、「心底見えた以上無用である」とその場で返したそうです。大事な場面で信じられたと感じた武将達の働きやいかに。秀吉の真骨頂が出ている場面であります。いいですね。秀吉の現実をしっかり見据えながらも、美しきものを追うところが好きです。大返しの途中、このうえは光秀を相手に亡き主人の弔い合戦をつかまつり、この身は討死の覚悟に御座候。もし拙者、武運あって生きながらえ候わば、右の申し訳もつかまつり候。と毛利に書き送っているそうです。《この身は討死の覚悟に御座候》この時の秀吉の姿が私は一番好きです。

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 高山右近、一番隊として2000人を指揮しこの合戦の勝利の糸口となる。「義を貫いた切支丹大名」と紹介される事の多い高山右近とはいかなる大名でしょうか。高槻が不思議な城下町と見えた訳は、領民25000人の内18000人が切支丹であったことだと言います。城主の庭園には噴水がありバラの花が咲き乱れ、パイプオルガンの音が聞こえたと申しますから、現在に置き換えても充分にモダンでありますね。変後、一揆が各地で略奪、暴行行なう中、高槻は領主への信頼から平静そのものであったそうです。この時、光秀に身をよせていたオルガンチノが、「我等、はりつけになろうともこの暴君に仕えないよう」とポルトガル語の添え書きをしての手紙を送ったとか、最後遠くマニラでの最後となった右近を宣教師達は大変大事にしたようであります。

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 大阪の役、秀頼23才であったといいます。現在の世でも充分な年齢ですね。しかも、浅井、織田の先を持ち、一大の英傑秀吉の血を引くとあっては、凡庸であろうはずなく、若き諸将達の秀頼を守ろうとした言動からも推し量れます。また、有名な家康との二条城における会見では、加藤清正が、その生涯において最大の緊張をもって脇添えをしたことは有名です。会見後清正ハラハラと涙するは今以て感動の場面です。反対に家康はこの対面をもって、秀頼の偉丈夫、聡明さを目の当たりにして、排除の決意をしたと言われています。秀頼、豊家の為、命を賭けた清正の苦労も、返って仇になったのかと残念です。この後、清正、国へ帰るや否や、病に臥せり、毒を盛られたとの伝えさえあることを思えば、この時期、豊家と徳川家のぎりぎりのせめぎ合いであったと思われます。

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 世界の東西分割線のことでしょうか。それとも東インド会社のことでしょうか。そのことと、宣教師を結ぶつけるのは危険では、といいますのも、フランシスコ・ザビエルなど伝記を読みますと、純粋に憧れと伝道をとの真意も伝わってきますが、どうなんでしょうね。確かにアジア征服の尖兵となっていた宣教師もいたとは想像できますが。日本にもとよりあった宗教は既に完成されていましたから、とりたてて基督教に目くじらを立てることもなかったと思われます。いきつくところは同じであると賢明な日本人には分かっていたのではないでしょうか。(イエズス会も不穏極まりない理想に信者を利用しようと)例えそうであったとしても、この時代に異国の世界の風を送り込んだイエズス会の役割は、日本にとって大変重要で歓迎すべきものではなかったでしょうか。この戦国期にあって、仏教以外の宗教文化を受け入れることのできた日本人は、大変大きな包容力と可能性を持っていたと思います。宣教師達は武力で日本を制圧するのは無理であるが、中国を制圧することは容易であると言っていたのではありませんか。もし必用とあれば、日本のパーデレ達が訓練された軍隊を中国に向かわせるであろうといった意味のことを本国に通達していたとか聞いたことがあります。また秀吉のバテレン追放令は、宣教師が乗っていた船をみて、その大砲などの装備に驚き、彼等の衣の下の鎧を看破した為であったと記憶しています。このような、ことなどから推しても、秀吉の大陸政策は時の流れに矛盾したものでなく、中国が西洋に征服されていれば、いずれ その矛先は日本に向けられたと思いますが、いかがでしょう。

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 先ほど「淀君論」というものを読んでいました。淀君は、平凡な普通の人・・・というのが、要約であったと思います。淀君が、非凡であったか平凡であったかによって、全てのことが正反対の様相となるでしょうね。兄弟である、姉妹は徳川秀忠の室であり、秀忠は尻に引かれていたとかの説をもって、淀君もそうであるというのは、兄弟に性格の違い多きが世の中である、というのも最もなことでしょう。淀殿の気性はどうであったか。

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 フロイスの見た日本女性◎ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。・・・ほんとうでしょうか。友達はもしそうなら、男性の盾になっていたんだろうかと言っていました。お毒見みたいな感じで・・・◎ヨーロッパでは男性が高い食卓で、女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする。・・・いっしょに食事をしなかったとか。また食事後、貴人であっても食膳を自分でかたずけたそうです・・・◎ヨーロッパでは、財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。・・・それでは女性(奥方)に頭があがらないですね。だから◎ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。・・・こうなるんでしょうか。◎ヨーロッパでは妻は夫の許可無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所へいく自由を持っている。・・・戦国時代の女性をフロイスの見た目で報告されているものです。特殊な階級の評かもしれませんが、あと町並みや生活一般のものなどの書いたものを見てもそうとも思えません。多くのものが「あべこべ」に見えた驚きが伝わってきます。・・・私も驚いているくらいですから。これまでの想像と違い、この時代の女性は大きな権力を持っていたように思えました。また性についても非常に奔放のようであったみたいです。

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 (最近読んだ司馬遼太郎の「城塞」は)私も大好きな一冊です。でも同「太閤記」と比べるとチョット暗い感じがしたのは、大阪の陣というものが持つ独特の雰囲気からでしょうか。淀君はほんとうは、おとなしい方であったのではないかと思うようになりつつあります。逆に、そうであったから、秀吉亡き後、あそこまでの長きに渡って豊家が持ったとも言えないでしょうか。「城塞」では、城での評定後両雄が、ガッカリしてもなお、こうなったら潔く武功を積み しを覚悟しつつ別れる場面があったように記憶しています。武士というものの美の部分を見た気がしました。淀殿ほど数奇な運命を辿った女性も少ないと思いますし、常に、大変な経験をしながら戦国の世の頂点を歩き続けたのですから、願わくは、その生きた人の世において、明るく楽しい一時もあったことを請い願うのみであります。

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 「細川ガラシア夫人」によると、秀吉は、朝鮮出兵中の諸将の奥方を招いての宴を設けたそうです。何かとウワサのある秀吉のことですから、拝謁の順番が細川夫人に回ってきた時のことです。夫人はしずしずと秀吉の前に両手をつき、礼をしたそうです。このとき誤ってよろける振りをして、懐から懐剣を落としたそうです。これを見て、秀吉、底気味悪く感ぜられたとのハナシがありました。「靡(なび)くなよ我籬垣(ませがき)の女節花(おみなえし)男山より風は吹くとも」などと、忠興が留守の夫人に送った歌が残っているそうです。

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 朝鮮戦争のとき、特需で沸いたと申しますが、地理的に見て、日本はその位置にあるみたいですね。考えて見れば、まわりをすっぽり海に囲まれた日本はある意味幸せだったように思います。国力の充実を待って、飛び出すことができ、また国力弱の時は、本土に閉じこもっていればよかったような。その点、大陸の国々には、その境界は弱いもので、征服、披征服の繰り返しで、大変であったろうと思われます。その世界に向かってどうであれ大望を抱いた秀吉、肥前名護屋城址には「太閤が 睨みし海の 霞哉(かすみかな)」ポツンと石碑が一つあるそうです。

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 秀吉まだ出世途上若かりし頃、「殿よりなんと百石の加増があった。願わくばあと百石の加増を頂く為励もうぞ」と喜んだと申します。これを聞いていた同輩達が、「なんと小さい望みであることよ」と囃したそうです。秀吉動じず「諸士のように成らざる願いは言わず。わしは願うところは必ず成す」と言ったそうです。ぞうり取りから徐々に出世の階段を登った秀吉をよく表している逸話と申せましょう。「ローマは一日にして成らず」のさしずめ日本版でしょうか。秀吉は最初から「天下」を望んでいたのではなく、このように努力を重ねた秀吉に「天下」のほうが向うからやって来た、というのがほんとうのところのように思います。

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 「加藤嘉明」関ヶ原では東軍に、伊予20万石から、合津40万石に移封。文禄・慶長の役のとき、虎をニラム清正横目に嘉明は居眠りしていて、虎が通ったの?と平然としていたとか。豪傑。「脇坂安治」秀吉を怒らせる名人というレッテルが。3石という微禄から3000石と出世しましたが、関が原では、小早川秀秋と共に東軍についたそうです。「平野長泰」この戦いの功により5000石を。さらに後豊臣姓を与えられたのですが、やはり関が原は東軍に、大阪の陣では、福島、加藤(嘉)らと江戸城留守を・・・疑われていたかも。「糟屋武則」のち、播州1万2000石の大名に、関が原は西軍に。当然領地を失いますが、その後すぐに(1602年)500石で幕府に召抱えられたそうです。1万石が500石・・・でも命あってのハナシですね。

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 かって光秀が秀吉を訪問し、帰りぎわに家臣に尋ねたそうです。光秀「木下殿は家中で評判の御人であるが、何か変ったところはあるか」家人「そう言えば、1つだけ変っているところがござります。」光秀「ほーう、それは何か」家人「少しばかりの手柄に、驚く程の褒美をくださいます。」・・・光秀内心舌を巻いたそうであります。・・・褒美を求めて働く物に、多く褒美をやることはない。褒美を求めずに働く物に多く褒美をやることだ・・・と言いつつも、欲に働く人を決して侮蔑せず、温かく見守りとにかく、褒めまくった秀吉。「人心をはなやかにしたもうところ、・・・」と功績をたたえる言葉は天下人にふさわしいものであります。

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 戦国の時代は想像してもそら恐ろしい時代でありました。戦場では首をぶら下げた武者達が横行し、首のない遺体がごろごろしていた訳です。まだ首を持たないものは血走った目で首を捜しまわるのです。女房達は主人の持ち帰った首を価値有るものにと、小川で洗っていたかも知れません。「あら、その首りっぱね。」などと言い合いながら。髪に櫛をいれたり、化粧をほどこしたなど聞いた事もあります。首こそが生活の糧と恩賞をもたらしてくれるのです。それこそ首をながくして「首」を待ちわびたことでしょう。この時代を理解するには現代の感覚をもってしてはとうてい近ずくことはできないのではないでしょうか。対極においては、茶の湯、絵画など桃山文化、日本のルネッサンスとも言われる文化が沸き起こったなど何ともいえない不思議な時代であると思っています。

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 賤ヶ岳の時点で、府中の前田利長が北の庄を攻める先陣を命令されることは仕方ありません。しかしその時、利長の長子である利勝が秀吉の馬の口取りをして走ったことはあまり言われないようです。このことは、秀吉が決して利長を心底信じておらなかった証拠ではないかと思っています。戦とはこのように非情なものであると思います。秀吉が家康を許した形にしたと見えるのであれば、それはひとえに潰せなかったからであり、家康にスキがなかったからであると思っています。また秀吉が殺さない人情味溢れる武将のようによく言われますが、戦場では首を取ることが当たり前であり、その将を生かしたことは、その後の領地経営に即戦力になると彼一流のソロバンが弾かれたからであります。殺す時はきっちり殺しているのが秀吉です。

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 過去いろんな光秀像が描かれてきたように思いますが、共通しているところは非常に陰に篭るところでしょうか。人のこころなど、いろんなものが巣くっておるのは誰しも同じではないでしょうか。秀吉は敏感にそれをキャッチし勤めて外へ発散させていた。光秀はそれができなかったのでしょう。また、将軍義昭などをまじかで見ていたことで、天下というものを軽く感じてしまったのではないかとも思っています。個人の性癖を見て、己のほうがましであると思い込み失敗する例は現代においても多見するところです。

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 「木綿籐吉、米五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」という小唄があったそうです。4人の当時をよく表しているとの評です。かかれ柴田は戦の先鋒なら柴田勝家と。勝家には「甕(かめ)割り柴田」の異名があることは有名です。これは六角勢との戦いで、長光寺に篭城した織田軍にいよいよ水が無くなりこれまでと覚悟した勝家が、最後の大水甕をたたき割ってもう水のないことを知らせ、城兵の士気を鼓舞し、その勢いで城を討って出、大勝利を手にしたという話だそうです。意外と秀吉と同じ戦線で戦っていることから、戦友とも感じられるのですが、どこからなんでしょうね。うまくいかなくなってしまったんですね。どうも浅井攻めのとき、お市の方の美しさに、秀吉目を奪われてからという説もあるようですが、これはもっと後のことですから、この時の秀吉への恩賞(小谷城)に対し、勝家が妬いたのが始まりというほうが現実味を帯びているように思えます。現在でも男の固い友情にヒビが入る一番の原因は間に女性が入ってくるときであると言われる方が多く、そのようなことも確かに見聞きしてもきました。

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 この時期、信長の二人への評価はどうであったのか気になるところです。天正七年、秀吉播磨攻めを終え、備前の宇喜多直家投降の件につき、所領安堵を信長に願い出ているそうです。しかし、この事は信長に僭越であると激怒されて追い返されます。勝家は、「越前一国を与えられ、手柄を立てなくてはと、加賀を平定したはみごとである」と信長に手放しで褒められています。こうして二人の領地拡大競争は天正十年、本能寺まで続いていくことになります。勝家は主の命に忠実であろうとした。秀吉は命令違反をしても主のこころを掴んでさえいればというところがありそうです。本能寺の業火に焼かれるとき、信長はこの仇を討ってくれる者はどちらであろうと思ったのか興味あるところです。秀吉か勝家か私も考えて見ました。信長は革新的な気風を持っていましたから、真っ白なしがらみのない秀吉のほうが、その気風に染まり易かったでしょうし、また理解もできたと思います。只、足利将軍にとって代わった時点で、信長の態度に微妙な変化が起きてきているように思えます。常識的な面ができてくると、やはり諸事に通じている光秀を重宝するようになるんではないかな、などと。天下を治めることとなればやはりね。本能寺に少数の供回りで宿泊したことなんかも、引っかかります。朝廷を刺激したくなかったなどの理由もあるそうですが・・・。

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