太閤記に関する覚書 1 |
Index / Top |
1 |
|
お日様の子、豊臣秀吉は1536年1月1日に生まれたそうです。ほんとうであればやはりすごいと思いません。偉人と言われている人で他には、ご存知の清水の次郎長なども・・生まれた日がいつであっても、もちろん誕生日に良否などありません。しかしプロパガンダには有効ですよね。氏素性なき秀吉にとって、この生誕日は天の配剤であったと思われてなりません。できる人はいつの世もいっぱいいるが、天を味方にできる人は数少ないそうです。
|
|
2 |
|
|
誰もが知っている句に"ホトトギス"
があります。秀吉の部分は確か「ー鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」ですか。彼の「不さつ」の精神が保身に走る戦国大名に与えた影響は大であり、このことが短期に天下統一を成さしめたと思います。またどうしてもころさなければならないときは大粒の涙をながしながら・・と読んだことを思いだします。「・・なにわのことはゆめのまたゆめ」浪花節を彷彿とさせる彼の生涯に多くの日本人が共感を覚えてきたと思いません?大阪城は関西の、いや日本人のこころに占めるシンボルとして今も燦然と輝き続ける訳は その縄張りの壮大さもさることながら、この秀吉の生き様を多くの方が愛してやまないからではないでしょうか。
|
|
3 |
|
|
歴史はほんとうに血塗られており、なんと愚かな人間であるかと思われます。しかしよく見てみると人間のこころに深く巣くう 妬み 嫉妬 権力欲などいろんな要素がその時関係のない無垢な人々に災いをおよぼします。だからこそ、歴史から学ばなくてはいけないと思います。どうして争いが起こるのか、どうして愛する人達が裂かれていったのか。
|
|
4 |
|
|
羽柴で思い出したことがあります。結城秀康、家康の子でありましたが、秀吉の養子となり幼い時から秀吉の元で成長した武将だったと。名も秀康と。自分の目の黒い内は秀頼に指1本指させないと、太閤子飼いの諸将が徳川になびくなか、1人気を吐きました。残念ながら病死したんでしたか。ここにも養父秀吉への思慕を感じ、秀吉の人間性を見てとれます。
|
|
5 |
|
|
茶道は今日非常に盛んであり、お稽古ごとに留まらず、各地のイベントなどに華を添えています。有名な庭園などで気楽に上がれる茶室も多く私もいただいたことがあり、楽しい記憶となって残っています。お茶は信長も愛用し部下には開催を認めず、唯一論功として秀吉にのみ、その茶会開催の権を認めたと読んだことがあります。信長の意志を継いだ秀吉は出陣の際、武将たちに大茶碗で茶を回し飲みさせたとか。高台寺にはその時の茶釜が残っているそうです。(お酒じゃなかったんですね。)両者とも茶を政治的に利用したことには変わりなく、信長の名器簒奪(献上?)は権力誇示の為と言われています。茶に対する秀吉の大功績は北の大茶会のように貴賎の別なく一般大衆にも茶の湯への参加を広げたことだと思っております。
|
|
6 |
|
|
「ひさご」瓢箪ですね。秀吉の馬印の千成ひさごは有名です。でもどうしてそうなったのか、またいくつぶら下がっていたのか私は知りません。実際に飲み物が入っていたのか?など興味は尽きません。長浜城のうたというのがあるそうです。「豊太閤の青雲のおもいこめたる出世城、千成ひさごゆくところ六十余州は波しずか」部分ですが、長浜の方の秀吉に対する敬愛の情がよく出ていますね。私が思い浮かぶ「千成ひさご」の場面と言えば、大阪落城の折、天守閣に投げ出された千成ひさごを徳川方の武将が見て嘆く場面です。栄光栄華の空しさを表す1幅の絵画を見るようです。
|
|
7 |
|
|
天正十年(1582)清洲会議により近江国長浜城主となった柴田勝豊。彼も秀吉に傾いた戦国武将だったと。この清洲会議はまたの機会としまして、あっさり長浜城を秀吉に渡したことなど考えても秀吉の人心掌握は芸術的でさえあります。彼には天下統一にいたるまで子がなかった。そのことが、多くの子供を手元で育て旗本とした訳ですから、その秀吉に対する忠節は親子の情に近かったように思えます。子飼い諸将の活躍ぶりは、賎ヶ嶽(しずがだけ)七本槍などに生き生きと出ているように思います。柴田勝豊も養父である勝家より秀吉に傾倒した訳も分かるような気がしますね。ちなみに勝豊は越前丸岡城の藩主でした。この城は現存日本最古の木造の城であり、近地ゆえに何度も訪れています。
|
|
8 |
|
|
肉じゃがつて、東郷平八郎が海軍の栄養不足を補う為考えたんだそうですね。しかも、大和造船で有名な呉と、海上自衛隊基地舞鶴との間で今、発祥の馳を競っているそうです。肉じゃがますます好きになりそう!おもしろいですね。何気なく当たり前と思っていたものの裏にすごい歴史ってあるんですね。
|
|
9 |
|
|
現在の福井県武生(たけふ)には府中城がありました。当時、勝家配下でありました前田利家の居城であります。近江での秀吉との戦いに敗れた勝家より一足早く戦線を離脱した利家ですが、この城門前で敗走中の勝家を待つ場面はこころに残ります。律儀と言われた又左衛門利家の気風、これを持って伺い知ることができます。出されたとされる湯づけをどのような思いで勝家はすすったでありましょう。また利家胸中はいかがであったか、男と男、まさに戦国なればこその張りつめた空気を ここに感じ取れないでしょうか。
|
|
|
|
10 |
|
|
一夫一婦制に慣れきっている今の感覚では理解が難しいと思います。まして人気をとらなければならない現代のドラマですからね。当時の社会では他家との縁組によって自家の安泰を図っていくことは当たり前のように行われており、その為に子をたくさん作る必要があったと思います。またよき側室探しも家臣の勤めであったのではないかなどと。それが、当たり前の社会では、女性の嫉妬心なども今のようではなかったと想像したりしますが、これは当たらないかも知れません。その点秀吉には子がなく、ねね一筋であったというところに、現代の社会にもねずよい人気を博しているのではないかと。その秀吉も天下人となってからは女あさり?が描かれるようになり、大陸出兵などと重なって評価が分かれることとなって行ったと感じます。
|
|
11 |
|
|
生駒屋敷の吉乃に信長は足しげく通ったんですね。濃姫との対立を避けて彼女は屋敷を離れなかったといいますから、大変聡明でかつ美人であったと想像されます。正妻濃姫に子供なく(秀吉・ねねに似ていますね)吉乃との間に、信忠・信雄をもうけたわけですから、信長の入れ込みようもわかります。ここで藤吉郎20才のときこの生駒屋敷に現われたとありますから、彼の持っている天分から考えて吉乃さまが信長に秀吉を紹介することは大いにあるところと思います。また、そうでなくとも信長と出会うチャンスが大変多かったことでしょうね。
|
|
12 |
|
|
司馬遼太郎の作品どんなの読んだんだろうと思って本棚を調べました。おっしゃっての「新史太閤記」上下、「関が原」上下、「城塞」上中下、(新潮社)でした。あんまり作者名気にして読んでいなかったので、すぐにお答えできませんでした。あと南条範夫「古城物語」、海音寺潮五郎「列藩騒動録」なんかも愛読書でした。
|
|
13 |
|
|
太閤記解説最後の文、ゼロになれる秀吉を端的に語るものの一つとして、信長への贈り物が思い出されます。安土天守より眺める信長が驚嘆したという、秀吉贈り物の荷駄行列の長さ。信長に猜疑心のかけらも持たせない秀吉のやり方は、彼の天性的な明るさから来るのでしょうか。その点では光秀にはできない芸当であり、光秀に同情する気持ちもあります。
|
|
14 |
|
|
前から疑問に思っていましたが、光秀は信長を討ち取ったことを世間はきっと囃し立て誉めてくれると思っていたんじゃないでしょうか。「主ごろし」なんて言葉もこの以前には使われていなかったそうですし、下剋上当たり前の戦国の世を見てきたわけですからね。秀吉が大返ししてきたと聞いた時も、自分を打つ為にと聞いて驚いたかも知れない。叡山焼き討ちなどは、人をころすことが仕事の武士軍団も流石に厭世気分に陥ったそうですし。ですから、自分の旗のもとこの国は治まるとの自信から、朝廷に挨拶にいったりしていたんでしょう。その点秀吉は天下は何で動くかをよく知っていた。光秀が架空の権力の世界にこころを砕き酔っているとき、秀吉の周囲には天下に対する人々の欲望が激しく渦巻き着々と集結していた。・・・光秀って秀(吉)を光らすと書きますね。偶然にしてもね。
|
|
15 |
|
|
信長正室 帰蝶 1535〜1612(号 濃姫・安土殿、法名
養華院)父 斎藤道三、今読んでいる本の主題は本能寺の本当の首謀者は誰かというものですが、疑えばきりがない。秀吉は言うにおよばず家康説、朝廷説、宣教師説、その中でおやっと思ったのが濃姫説です。ずいぶんと以前の大河ドラマで確か濃姫は本能寺において信長見守るなか果敢になぎなたを持って討ち死にした場面があったんじゃ?と。とても感動する場面でした。調べて見ると、なんと長生きしているではありませんか。これはおかしい。時代考証もされているんでしょうに。本能寺以後、彼女の記述が極端に少なくなる訳はなんなんでしょう。確かに美濃の仇である信長に対し動機はあります。それより吉乃に対する嫉妬もあったかも知れません。しかし本能寺と結びつけるには、まだ希薄なように思えますが。実家が無くなり信長までも、
帰蝶(いい名前)さん寂しい思いをして暮らしたんじゃないかと、もしそうならかわいそうですね。そうして見ると、名前もなんとなく寂しそうな・・秀吉はどうもこの頃の信長の変りようにいろいろ思い切った手を打っていますね。信長の長子(秀勝)を我が子として譲り受けたいとか、膨大な贈り物をしたり、しかし余人にまねのできないことは、中国毛利戦線において、必要としなかった信長に出馬をあおいだという手法であると思います。この時代の秀吉の細心を払った生き方には学ぶべき点が多いと思いますしそれほど信長と微妙な関係であったかと。
|
|
16 |
|
|
「秀吉戦記」の中で「絵本太閤記」について書かれた部分があります。上島主水(うえじまもんど)と秀吉の合戦シュミレーションであります。信長は秀吉を一方の大将にしたてその力量を測ろうとしたのでしょう。それぞれ預けられた50人の足軽達。主水は鎗術にたけ、徹底的に教え込もうとし、その過酷さに足軽達の反発を買ってしまいます。秀吉は連日酒肴で足軽をもてなし喜ばせたとあります。事実ではないにしても秀吉の性格考えをよく表した一事であると思われませんか。秀吉のまわりでかいがいしく酌をしてまわる ねねの姿も浮かぶようであります。「学ばずして道を知り、聞かずして法を得た」と秀吉を誉めるあたりはチョット自画自賛が強すぎる気もしますが、このようなやり方によって、秀吉軍には 主将と部下の強固な信頼関係が生まれていったのだろうと思います。長い鎗、短い鎗みなさんはどちらを選びますか。
|
|
17 |
|
|
最近の考古学も例の捏造事件などで大きな打撃を。これらも、○○の里など商魂に押される部分もあるかも知れません。秀吉の太閤記が読まれるのも、その時々の多くの方の望む生き方と符合する部分が多く、支持されてきたのだと思います。真実であるかどうかは、歴史学者の研究に待つこととし、できるだけの資料を集めて書かれるであろう歴史作家のいろんな説を楽しむ姿勢でいいのではないかと思いますがいかがでしょう。また、歴史上の人物に好き嫌いのあることは、十人十色当たり前のことであり、フリーク(特定の対象に、熱狂的、あるいは偏執的に、こだわる人だそうですね)な方が出るほうがむしろ自然であると思えます。
|
|
18 |
|
|
「信長の代、・・・さ候てのち、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎、さりとてはの者にて候」誰もが知る、安国寺恵瓊の有名な言葉でありますが、光秀でなくとも信長は早晩ころされたことと思われます。本能寺首謀者は誰かと、多くの名が挙がって来ることがそれを物語ます。家康は長子を、光秀は母を、秀吉は官兵衛の子を危うくころされるところでありました。信長の非情さは混沌とした戦国を切り開く為に必用とされた必用悪であり、それを遂行することは、信長であればこそ成しえることができたのではないでしょうか。叡山焼き討ち、一向宗に対する非道の声を聞きますが、衣の下に鎧をつけた仏僧達こそ責められるべきで、信長が憎んだのはそういう輩ではなかったのでしょうか。高ころびに と予言した恵瓊も、何年か後に、三成らと共に斬首される自分の姿までは見通せなかったところに、歴史の皮肉さがあるように思えてなりません。
|
|
19 |
|
|
いろいろ歴史上の人物名が多く自然に浮かんでくるのは、どんな時代でしょうか。太閤記の時代、明治維新、太平洋戦争の頃でしょうか。これらは日本に於いて大激動の時代であり、今までの価値観が否定されたり、新しく創造された時代であったと思います。必然名もない多くの若者が歴史の舞台に踊り出て縦横無尽な活躍ができた時代でもありました。まさに天下国家の時代とも言えます。徳川安定政権のもと、社会は極端な改革を望むべくもなく、そういった時代に歴史に名を残すような仕事はあるのでしょうか。現在の日本で、後世に名を残される方はどれほどおられるでしょうか。『太閤記の時代』この時代に生きた方々がまさに命のかかった、その時々の生き方を我が事のように考えることが自分のこれからの生き方にプラスになればと思っています。現在の時代、選択を誤っても命までは取られませんから、考えも先人の域には遠く及ばないとは思いますが。
|
|
20 |
|
|
長い封建時代にあって被支配階級から最高支配者になった唯一の人物です。彼がいかに低い身分から一代で天下人になったかは現代の我々より、身分制度の厳しい江戸時代の人々にとってはまさに信じられない事でした。知恵伊豆とよばれた松平信綱はこの世でもっとも驚く事はと聞かれて『草刈童から天下人になった秀吉だ』というような言葉を吐いてます。民主主義があたり前の我々現代人よりも、当時の人たちの方が秀吉の出世はまさに奇跡と思われたのでしょう。ゆえに秀吉の存在は封建社会の江戸期にあってはタブーとされ、いわゆる太閤記ものは発禁処分となりました。しかし庶民の夢の体現者であった秀吉の人気はそれゆえに根強く太閤記物の出版は何度もブームをよびました。秀吉は民衆の英雄とよばれる由縁です。
|
|
(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) |
|