太閤記に関する覚書 8 Index / Top
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 太閤秀吉から、いろんな方が飛び出してきますね。ところで、日本で一番先にクリスマスを祝った?のは堺衆と読んだことがあります。また、ベットで寝た最初の人は秀吉?天正遣欧少年使節がヨーロッパから帰国したときに、豊臣秀吉の前で演奏したとされる西洋音楽。秀吉が3回もアンコールをしたといわれるのはスペインの名曲「皇帝の歌」であったとか。秀吉は「アンコール」の元祖でしょうか。

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 天正十年(1582)、イエズス会の巡察使ヴァリニヤーノは四人の日本少年を伴い長崎を出発し、西回り航路をとって、ローマに向かう。この企画は、思いがけずローマ教皇の拝謁を得るなど、大成功であったといいます。具体的な成果としては、ドイツのグーテンベルグが発明した金属活字印刷術の伝来であったと。残念な事に八年五ヶ月ぶりで帰国した天正遣欧使節を待っていたものは、宣教師退去令であり、十分な活躍ができなかったことでしょう。このときの印刷機は転々とし、最後は追放となった右近と共にマカオに渡ったといいます。

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 現代の日本人がキリスト教に無関心、もしくは敬遠を示すのとは対照的に、戦国時代の日本人は、たちまちキリスト教に感化され、共鳴しているのが、宣教師に関する資料から推察できます。(戦国夜話)確かにこの時代ほど、日本にキリスト教が広まった時代はないのではないでしょうか。その時代の民衆が素直であったのかも知れません。しかし最大の原因は時の権力者の容認であり、否定され弾圧を受ければすぐにその火は消えていったようです。例えばこの時代一向一揆などもあり、多くの人が宗教の元に戦ったことを考えれば、仏教という下地が既にあり、すがるものさえあれば、どちらでもよかったのかも知れません。権力者の欲したものは、教えそのものではなく、それに付随してやってくる目新しい文化であり、知識であり、技術であったとは容易に想像がつきます。混沌とした中にあっては、新しいものを追い求める気持ちは当然のように思います。ひとたび、政権の安定を間直にすれば、「絶対」のものが二つ存在することは邪魔以外の何ものでもない。主を絶対と崇める宗教は都合が悪かったでしょう。また、落ち着いてきた仏教僧侶への宣撫の意味もあったのかも知れません。

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 遠藤周作の「戦国夜話」の中で・・・九州作戦ののち、秀吉は切支丹禁教令をだしました。その理由は大陸作戦に南蛮船を利用して、軍隊を送ろうとの思惑が外れたのが最大の理由と、私は考えています・・・というくだりがあります。南蛮船は構造上遠浅の博多港に集結するのが困難であったからとか。また秀吉の時代に入ると、信長の時代にはまだ聞こえてこなかったヨーロッパによるアジア侵略の噂が聞こえてくるようになったからとあります。これは分かる気がするんですが、前者の南蛮船とはどうして、その理由になるんでしょうか。ポルトガルやスペイン?の船は交易には来ていたんでしょうが、その船がどうして秀吉軍を運んでくれるのかよく分かりません。またもし運ぶとしたら、どれほどの船を必用としたか大変な数になるはず。どこかの国と同盟を結ぶ気でもあったんでしょうか?

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 (秀吉に南蛮船を献上しようと申し出たのは)なるほど、約束を破られたとすれば怒りますよ。確かに1隻手に入れれば当時の日本の技術で量産可能だったでしょう。朝鮮の水軍にも苦しめられることはなかったかも知れませんね。(秀吉は信長時代からキリスト教の危険性を)信長は叡山焼き討ち、石山本願寺攻めなど寺院に評判最悪であったと思われますが、意外なことに安土近くにハ見寺なる寺院を建立し、これにお参りするよう求めているそうです。(1)この寺参拝の者、富者となり子宝を授ける。(2)80歳までの長寿を与える(3)予(信長)の誕生日を聖日とする(4)以上3ヶ条を信ずるものは何事も叶えられるものである。そして寺の本尊に、一個の『石』を納め仏像より高いところに置いたそうです。石を自分自身に見立てたのでしょうか。これを、フロイスは驚き呆れ「悪魔的傲慢さ」と罵ったそうです。しかし、このことは信長がフロイス等の説くゼウスから学んだことに他ならず、信長流の「神」の解釈であったと思われます。キリスト教排他の考えは秀吉以前、既に信長によって現されていたものと考えます。(イエズス会は東大寺焼き討ち)これは、仰るように松永久秀だとばかり思っていました。少し調べても見ましたが、イエズス会と東大寺焼き討ちが繋がりませんでした。

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 少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚いたそうです。「我が民のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域で売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」と使節団の会話録に残されているそうです。しかし、「日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」ということはあったそうで、秀吉がこういった農村秩序の破壊を憂えたことが、検地・刀狩政策を徹底した、一つの理由になったとも言われているそうです。

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 今日はクリスマス・イブです。私は未だにイブと言えば「アダムとイブ」だろうかなどと、全く意味を知りません。でも「聖夜」などと聞きますし、キリスト教にとっては、大事な日なんでしょうね。フロイスの名前はもう何度も出ています。しかし、「ザビエル」の名が、ここでは出ていませんね。今、手元にある本は、「ザブィエル」(日本歴史学会編集)です。ザビエルは日本人の長所、短所を説いてやまなかった。「日本の国民はその文化・礼儀・作法・風俗・習慣において、いうも恥ずかしいほど多くの点で我々スペイン人より遥かに優秀である。日本の国民は怜悧な頭脳と善良な特質を持っているので、布教も容易であり、アジアにおいてこれに匹敵する国民は他に見いだせない」といい「日本人ほど理性に従う人民は世界中で逢ったことがない」と賛辞しています。厳しい自然に耐えるため、日本向けの教師はフランドル人かドイツ人が適していると本国に書簡を送っているそうです。

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 「閉ざされた国」中国の扉を開こうと、ゴアを出発したザビエルは中国の地で発病し、上川島(サンシャン)で亡くなりました。埋葬後も遺骸は「生けるがごとし」でゴアに運ばれることになります。聖ポーロの聖堂で盛大な儀式が執り行なわれた。この遺骸展示中、一貴婦人が、上人の足に接吻すると同じに、小指と薬指を噛み切り、大切にしたとか、その他いろいろな話が伝わっています。その後、上人に対する崇敬の念高まり、切支丹大名大友宗麟などの運動もあり「聖人」の位にとの機運が高まります。とうとう、イエズス会の命により、遺骸から右腕を切断しローマに送られました。また内蔵などは細かにきざまれ、ヨーロッパ、インドの各地に分配されたそうです。イタリア生まれのマルセロ=マストリリというバテレンがこの腸の一片を手に入れ粉にして散薬を作り日本の将軍(家光)に献上しようと持参しています。彼は斬首されてしまいましたが。上人の「生けるが如き」遺骸はこうして、今もなお存在しているそうです。また鹿児島の聖フランシスコ=ザビエルの日本上陸記念堂に上人の「爪」が安置されているそうですが、ほんとうでしょうか。

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 ザビエルの研究心と日本伝道熱をそそったものは、アルバレスの「日本記」であったとか(1)日本人は傲慢で怒りっぽい。(2)彼等は慾あさく、その国を訪問して見ると、甚だ物惜しみしない。(3)彼等は我等の国や他のことどもを知りたいと切なる欲求を示す。(4)彼等は嫉妬を知らない。(5)彼等は盗むことをひどく嫌い、僅かに盗む者でもすぐ死刑にする。(6)彼等は音楽・演劇を愛好するが、賭博を蔑む。・・・・日本人はいたって宗教的な国民である。聞いたザビエルはすぐに伝道の旅を決心したそうです。(2)とか(4)とか何か顔が赤くなってきそうです。昔の人って「いい人」ばかりだったのかも知れませんよ。ある日、ザヴィエルが もし自分が日本へ行ったら日本人は信者になるかなと、アンジローに聞きますと「すぐには信者になりますまい。彼等はまず色々と質問するでしょう。あなたの答弁を聞き、あなたの知るところを探り、更にあなたの行状を察して言行が一致するかどうかを確かめるでしょう。もしあなたの語るところが自らの疑問をよく解くならば、半年の中に国王・王妃・貴族その他一般の庶民にいたるまで、皆信者になるでしょう。何となれば、日本人は理性によって自己を支配する国民だからです」と答えたそうです。

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 竹中半兵衛の兵法 、 半兵衛は、戦わずして敵を降伏させることを第一に考え、調略、外交政策によって、敵を制することが大事と考え、これは秀吉に助言もし、もとより秀吉の考えとも一致したそうです。『おおよそ、用兵の法たる、国をまっとうすることを上となし、国を破ること、これに次ぐ。この故に、百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、すなわち善の善なるものなり』まさに秀吉の戦そのものを語ったものであると思います。『善の善なるもの・・・』いい言葉とは思いませんか。

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 半兵衛にはたくさんの逸話が残っているようです。彼は普段から、座っているときも 絶えず手足の指を動かしていたそうです。これは、咄嗟のときその対応ができるようにとのことです。「武士はいついかなるときも刀を離してはならぬ。近頃は刀を別室において、座敷に通ることが多いが、大勢での会合では、別室に刀がいく振りもあり、にわかの時、自分の刀がどれかわからなくなって不覚をとるやもしれぬ。自分の刀は人と逆に置くとか、立てかけて置くとか、見分けがつくようにしておくべきだ」などと、細かいところまで侍の心掛けを説いたそうです。馬なども高価なものはダメだとか。馬を誰かに奪われないかなど気になって、大事なところで手柄を逃すこともある。惜しげなく乗り捨てられる馬を持っているのがよいとか。実に具体的でおもしろいですね。黒田官兵衛が知行を増やすという秀吉の約束が果たされないと、書付を見せたところ、半兵衛はその奉書を破って燃やしたそうです。こんなものがあるから、不平や不満が出てくる。それではほんとうの御奉公はおぼつかない。こんなものを当てにする心を捨てるように諭したといいます。この一事を持ってしても半兵衛の生き様は知れようというものです。清流のようなさわやかさは充分に感じられます。

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 姉川合戦の軍儀のおり、半兵衛は秀吉から意見を求められました。「始めて殿との初陣である私が、このような大事な戦に申し上げるような意見はござりませぬ」 と答えたそうです。そのへりくだった様子に、蜂須賀小六を始め以前からの家臣達が、「我々に気兼ねせず」とどんな意見でもよいから聞かせて欲しいと言ったそうです。このとき、織田軍「鶴翼の陣」をとっており、その危うさを指摘し、陣形を変えることとなり、この戦を勝利に導いたと申します。もし、秀吉から意見を求められた折、待ってましたと自説を吹聴すれば、譜代よりの臣、おもしからず。皆より意見求められ始めて自軍の作戦となり得る。半兵衛は人のこころを掴む達人でもあったようです。

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 北政所は一般にねねと愛称されている。しかし最近おね説が台頭してきている。確かに「ね」とだけの署名を見たことがあるような。「お」をつければ「おね」である。ところが「祢」との署名がある。「祢」は「ね」または「ねい」と読むことから「おね」とも「おねい」とも呼んでおかしくない。また「ねい」は、本来 nei の二重母音で「ね」の長音をあてることが多く「ねー」と呼ばれていた可能性もある。木下家に保存されている資料には「寧」との記載が多く、「ねい」「おねい」が妥当とされる。『太閤素性記』に、「ねゝ御料人」と記されているところから、「ねね」と紹介され現在にいたっている。そしてこの参考図書は、「ねねと木下家文書」です。「ねね」でいきますね。

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 ねねの甥、木下勝俊は若狭国小浜城主でありました。関ヶ原合戦の直前、勝俊は伏見城留守居役でした。この伏見城を徳川家康が上杉征討に発った後、石田三成が包囲しました。その時攻め口大将が弟の秀秋であり、勝俊は城を抜け出し、京のねねを頼っています。この間に伏見城では鳥居元忠などの壮烈な戦死がありました。このとき勝俊の取った行動は家康はじめとして、大変世間の不評をかったそうです。彼の正室、宝泉院もあいそをつかし、髪を切り出家して家を後にしますが、そのとき一首の歌を送っています。「命やはうき名にかえて何やせん まみえぬために送るきりかみ(切髪)」この時代何が大事であったかを考えさせられます。また武家女性も自分の生き方を決定する権利を持っていたことがわかります。しかし高台院(ねね)は勝俊をふびんがり、いろいろ便宜をはかっていきました。勝俊も秀秋もねねにとってはかわいい甥っ子であったのです。おそらく秀頼とは・・・と想像するのはまだ早いでしょうか。子のなかったねねにとって、側室の生んだ子と、血を分けた甥っ子とどちらがかわいかったのでしょう? 女性から見てどう思われますでしょうか。(もちろん、秀吉大好きであったとして)私にはいろんなことを差し引いて、5分5分になるんではないかと思いますが、どうでしょう。

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 木下利房は福井の高浜ゆかりだったんですね。ねね(高台院)が一族間の出来事を、一喜一優する様子の書簡が残っています。例えば、木下利房の弟の娘の結婚にさいし返書をしたためています。・・・我々なともそそうなる事にて候つれとも、天下かくれもなき事になりまいらせ候つるまゝ・・・秀吉との「粗相・そそう」な結婚式を思い出しながら、お祝いの手紙を書いているのです。この文を写真とはいえ今見ていますがすごい達筆なんですね。また毛筆によるからでしょうか、こころの躍動感というものが伝わってくるようです。かな、漢字を毛筆で書く文化はもう展覧会だけのものになってしまうかも知れませんが惜しいことです。さて、「わたしたちのそそうな結婚式は、天下のみんなが知っている」と書くねねの姿には決して気取ったところがないことに驚きます。そそうな結婚式とはどんなものであったのでしょうか。思い出しながら懐かしむねね様の姿が浮かぶようです。

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 北政所(ねね)は尾張国愛知郡朝日村で誕生したとされています。父杉原助左衛門定利、母、朝日。後、朝野長勝夫妻の養女となったそうですが、何故養女になったか、・・・或説伝、政所君秀吉公に稼し給うは実は野合也・・・野合、すなわち婚前交渉?ということでしょうか。これに激怒したねねの母、朝日は生涯秀吉を憎んだと申します。それを見かねた、浅野氏がねねを養女として、秀吉と結婚させたと言いますから、現在多く?見られる結婚に対する世相は、既に秀吉、ねねによって実践されており、責めることのできないものであるかも知れません。時に、ねね14歳 秀吉26歳であったと申しますから、イニシアチブは秀吉にあったと見るのが妥当でありましょうね。確か孔子もそのような結婚によってではなかったでしょうか。

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 駿河今川家家臣、松下嘉兵衛之綱(ゆきつな)は頭陀寺(ずだじ)に屋敷を持っていました。秀吉が最初に仕官を願った武将です。嘉兵衛の屋敷はかやぶき屋根で、屋根の上には矢を射る台があったといいます。嘉兵衛は猿?を気に入り納戸役(物品係)にしています。太閤記ではこの間、猿はお菊という女と結婚したようになっていますが真偽のほどはわかりません。嫁に逃げられた猿は、評判の悪くなった土地を離れようとしますが、別れるとき嘉兵衛は猿に銭を与えています。嘉兵衛は猿にとって、内心ではまだまだ物足りない主人であったようですが、大変温厚な人柄であったように感じています。松下氏は小豪族として主君を今川、北条、武田、徳川と替え、ついにはかつての家来、秀吉により大名に取り立てられました。松下之綱は特に優れた人物ではないため、秀吉としてもあまり広い領地を与えるわけにはいかなかったが、旧恩に応えるため、格式の高い城を与えたという説があります。剣術の達人、柳生十兵衛の母は松下家の出身だという方もおられるようです。これらのことから、松下嘉兵衛と秀吉の人となりを推察していくのも歴史のおもしろさだと思います。

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 古代では、恋愛はきわめておおらかで、結婚とのさかい目は明確ではなく、男女の関係は対等であったといいます。平安時代には夫が妻の実家に会いに行く通い婚を経て、同居するのが一般的でしたが、妻はひたすら待つだけですから夫が訪ねてこなくなれば、即離婚!だったとか。さて、鎌倉〜戦国時代 妻が夫の家に嫁入りするようになります。この習慣は武士から始まって、徐々に社会全体へ広がったそうですが、妻は夫の所有物と考えられるようになり、女性の地位の低下に繋がっていきます。武家の結婚は政略結婚であり、現在のように愛情や人柄で相手を選ぶなど考えられなかったようです。江戸時代に入り幕府は上下の秩序を守るため『家』をすべての基礎としたため、子どもが生まれない妻は、離婚されても文句は言えなかったとか、妻が夫に妾を勧め、その子を自分の子として育てることもあったそうです。秀吉の「野合」はまさにこんな時代であり、身分がまだ低かったことが幸いしていたのでしょう。ねねといっしょになってからの秀吉の女ぐせとよく言われることも、この背景からはごく自然のことであったと思われます。しかし、最初に結婚した相手以外に肌を許すことは絶対にしてはならない、といった教えは江戸時代になってからのことで、戦国女性達は強く生きた例も多く見られるそうで、時には夫を見限ってさっさと再婚する例もあったと申します。「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」フロイスが驚いて書いているそうですが、当時の日本をよく表していると思います。こうして、見ると今の日本の男女のあり方は限りなく『古代』へ向かい回帰していくようにも見えます。

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 信長は足利義昭を将軍の座につけたとき、その褒美として、皇室から下賜された「桐紋」を頂いたと思います。こういった紋は気にいった家臣に使用を認めたのではないでしょうか。常に戦功抜群の秀吉にも。また秀吉は信長だけでなく、のちに後陽成天皇からも「菊紋」と「桐紋」を下賜されています。このとき、有頂天になった秀吉は、とくに「桐紋」を調度品や衣服、武具、大坂城の外装にまで縦横無尽につけまくったそうで、秀吉らしいですね。また家臣にも使用を認めていたと思いますが。家康は桐のルーツ足利氏を嫌い、この紋の下賜を断り「三つ葉葵」を徳川の紋として、紋の使用を厳しく規制したそうです。天正14年京都大仏殿造営の折り、その石垣普請の時のことです。もし将来、仏法が衰えて人心が仏法から離れたとしたら、小さな石では盗んでいくものが現れるやも知れない、と秀吉は心配し、特別大きな石で築くことにしたそうです。この時、細川忠興、二間に一間という大石を引き、京都中の大評判になったとか。秀吉自らその上に乗り、引き手4000人の音頭を取ったそうで、秀吉大喜びであったと申します。引くもの、引かすもの一対となった大仏造営、興奮の気が伝わって来るようです。この頃、山の「石」は誰のものでもなく、「石場の石は誰でも取り次第」でありましたが「石に名前を書いた」だけでは権利は認められず「たとえ1町でも運び出した」者に優先権ありと定められていたそうで、大変な石ブームであったそうです。特筆すべきは、落城した城の石垣は「縁起が悪い」と誰も使わなかったそうで、石垣だけがポツンと残る「古城の月」のような歌に代表される風景ができたのかな、と勝手に想像しています。「春高楼の花の宴めぐる杯影さして、千代の松が枝わけいでし昔の光いまいづこ」

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 (対上杉戦で勝家が執拗に、しかも慌てふためいて北陸への援兵を求めた事に対して、秀吉は憤慨し、批判的でしたが)上杉上洛のきざしに織田家中も慌てふためいているなか、秀吉は動じていません。秀吉憤慨は信長の命により、勝家配下となることを嫌ったからではないでしょうか。(秀吉が毛利攻めで同様に援軍を求め、)これは、一般的に秀吉の深慮であると言われています。この時期信長は佐久間など譜代の大名を平気で追放するなど、秀吉にとっても内心安心はできない状態でありました。勝ちすぎる臣を忌むという信長への配慮から、絶対優位でありながら、援軍を請うたわけす。しかし、私はそれだけだとは思われません。毛利はほんとうに手ごわかったのではないでしょうか。「律儀」を身上とする毛利は今までの相手とずいぶん違ったと思います。人タラシ名人と言われる秀吉であっても、その上を行く人としての凛とした絆にぶつかってはどうしょうもありません。5年もの長対陣は秀吉を苦しめていたと思います。前に「中国の律儀」後ろに「気の短い信長」に挟まれ、内心絶対のピンチを迎えて信長に援軍を要請したと思います。これは信長が佐久間追放のおり、無能ならば何故わしに援軍を請わないかと怒ったことを見ているからでしょう。また、毛利戦後の信長の出方に一抹の不安もあったかも知れません。(状況が違うとは思いますが)秀吉と勝家の性格の相違でしょうか。信長に対する気配りは天と地ほどの違いがあったように思います。同じ出馬要請であっても、かたや同朋への妬み、かたや深慮遠謀を感じます。

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