太閤記に関する覚書 2 Index / Top
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 秀吉にも危機が訪れたことが。小谷城落城後の秀吉には、しばらく功を成す機会なく、光秀などが頭角を表すのを横目に、あせりが見られたように思います。信長の命により、北陸柴田の配下で戦うよう命ぜられたことがありますが、このとき意見の違いから、あろうことか秀吉はさっさと長浜に帰ってしまいました。怒った信長は秀吉に蟄居を申し渡しますが、よくこれで済んだと思いませんか。信長の気性からし軽くて追放処分は当たり前のような気がします。やはり信長は秀吉を憎からず思っていたのでしょう。しかし、この蟄居中はさすがの秀吉も冷や汗の毎日であったろうと思います。彼のすごいところは、この間毎日宴を開き大騒ぎをして過ごしたというところではないでしょうか。他の武将であれば、静かに恐れ入って沙汰を待つという姿を想像します。しかしこれでは信長に猜疑心が芽生えるのではないでしょうか。秀吉の深い人間に対する洞察力を感じます。

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 福井市において金箔が張られたと思われる鬼瓦が出土したそうです。この瓦は戦国時代から徳川時代にかけてのものと見られ、「北の庄」のものであるやも知れません。現在市街地整備の一環としての発掘途中のものであり、大きな発見として位置ずけられるそうです。「北の庄」はもちろん勝家とお市の方の悲劇として有名でありますが、この時北の庄城を見下ろす足羽山に秀吉は布陣したと伝わっています。この足羽山は何度も登っておりますが、ここに秀吉が立って采配していたのかと、遠い歴史に思いを馳せることが楽しみのひとつになっています。(2003年11月)

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 織田家の重臣としての勝家は誰もが認めるところと思います。弔い合戦に遅れたとはいえ、その後の秀吉の前に大きくたちはだかる勝家。秀吉との大きな性格的違いを感じます。しかし私は勝家の生き方にも共鳴する一人です。時の勢いで世の中が秀吉に傾くなか、雪深い越前北の庄において、お市の方、浅井の忘れ形見の三人の姫と過ごす勝家には主家である織田への一片の邪心も感じることはありません。この時期の秀吉の打つ手には才気ばかり感じられるのは、この勝家のあまりの人のよさが影響しているのかも知れません。織田家発祥の地と言われている織田が福井県にあります。信長は越前を任すものは勝家と無意識に選んでいたのではないかと、やはりどこかで一番信頼していたのかも知れませんね。滅びの美学という言葉をよく聞きますが、北の庄における勝家、お市の方の末路はまさにこれに当てはまると思います。

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 信長の時代より大陸進出は考えられていたのでしょうか。《ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長は「毛利を平定して、日本六十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。日本は我が子たちに分かち与える」と自らの構想を語っていたとのことである。フロイスは直接信長と会見した人物なのだから、この記述は信用してよい。》とあります。《当時の先進国のグローバル・スタンダードである絶対王政を目指していたわけで、その意味では、むしろオーソドックスな路線を歩んでいたとみなすことができる。つまり、信長は、ポルトガルやスペインが行ったような海外侵略を企てていたわけだ。実際、フロイスは、信長のことを絶対君主と呼んでいた。》ともあります。文禄・慶長の役については《1586年(天正14)には日本イエズス会の副管区長ガスパル=コエリヨらに〈日本を統治することが実現したら,日本を弟の秀長に譲り,自分は朝鮮とシナを征服することに専念したい〉(『イエズス会日本年報』)と述べており,単に愛児鶴松を失った悲しさをまぎらわせるとか,老人になって誇大妄想になったなどというのがいかに俗説であるかが明らかとなろう。対外的に領土を拡張しなければ封建的主従関係そのものが維持できないという,封建制そのものに問題があったからであると思われる。》引用終わり。秀吉は信長の考えを忠実に実行に移したということでしょうか。もしそうであれば、秀吉に対する評価も随分と違ったものに・・・

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 例えば、元寇などの時のような戦の発端がはっきりしないのは、何故なんだろうと以前より不思議な気がしています。しかし、信長の計画であるとすれば朝鮮出兵に至る経緯がはっきりしないのも頷けます。秀吉が怒ったのは講和の使節の持ってきた明の無礼な書状によってでありましたね。これは元寇のときは、使節の首を全員刎ねているほどですから無理もないかと。

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 「寛政の三奇人」林子平、高山彦九郎、蒲生君平。「寛政の三博士」柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里。おまけで、谷風と雷電と小野川を「寛政の三力士」と言うそうですね。

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 天正元年(1573)織田信長に滅ぼされるまで小京都と呼ばれていた越前朝倉遺跡は何度も足を運びました。この朝倉遺跡は県の重要な観光地ともなっており、年々整備されてきました。ここに立っていつも思うことは、義昭が将軍就任を目的に一乗谷を訪れ上洛を要請しましたが何故義景は動かなかったのかということです。そのため義昭は信長を頼ることとなるからです。戦国時代全ての大名が天下への野望があったわけではないかも知れません。信長は将軍義昭の命令として義景に上洛をうながすが、義景は従わず、信長は越前を攻めることとなります。逆の立場になりえたかもしれない越前朝倉、歴史の不思議さを感じませんか。

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 越前の朝倉、柴田、その時代の天下を狙える有力大名でありましたが、結局その夢を果たせなかった。(天下を考えなかったのかも知れませんが)これはその土地の風土に大きく左右されたと思います。近江に抜ける木の本は有数の豪雪地帯です。私も冬スキーに行きますがこの峠を勝家は雪解け待たずして秀吉との戦闘に出て行ったと思うとき慄然といたします。この険しい峠が京都つまり天下を取ることを阻んでいたように思います。確かにそのことをよく利用し、勝家が越前から雪の為出れない間に、秀吉は中央を固めることができたのです。現代においてさえも、過去の豪雪の時、北陸本線が不通になり「陸の孤島」と呼ばれたことを経験しています。自衛隊などの活躍で、何とか食料確保ができたのではなかったかと記憶しています。ナポレオンもヒトラーも冬将軍の前に野望を砕かれました。そして勝家もまた、雪によりその勝機を逸したかも知れないと。領地をどこに持つかは天下取りの最大の要因ではないでしょうか。

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 戦後日本の復興していく途上と、秀吉の出世して行くさまがダブって見えたのかも知れませんね。世の中が不景気になれば実務的ソツのない生き方をする人が好まれるかも知れませんね。いつの世も底辺を占める人達の方が圧倒的に多いのが人の世ですものね。私は当時どの武将の下にも第二、第三の秀吉は育っていたと見ています。天下に一番近かった信長に近従した秀吉が日の目を見たと考えてもいいと思います。(この運を掴んだ秀吉はやはり天下一です)この、下剋上(悪い意味でなく)時代多くの秀吉の中で一番すばらしい秀吉が天下を取った、このことは忘れられようとされている大事な生き方を今の世にこそ伝えているものではないかと思います。

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 秀吉がキリスト教弾圧に転化していく中、宣教師フロイスの、秀吉評価が変っていくところに興味を持ちました。秀吉の実の兄弟であると名乗ってきた者のことを、大政所に秀吉が聞くあたりは彼の心まで伝わってくるようでした。秀吉は結局自称弟、妹二人を始末したとあるところなど、どうなんでしょう。大政所が嘘をついているような作者の書きようでしたが、権力は親子の情以上に大事なものに、なるんでしょうかね。ほんとうなら、恐ろしいことです。

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 「兄弟は他人の始まり」などと言う言葉はいつから言われるようになったんでしょうね。ひょっともしてこの戦国時代からかとも想像してしまいます。親子、兄弟がころし合った時代、その中に合って秀吉の母、兄弟、また、妻に対する情愛の深さは一筋の光明でさえあります。太閤記は秀吉のそういった人間としての持たなくてはいけない大事なものを教えてくれるバイブルのようでもあるというのは、言い過ぎでしょうか。あの時代、秀吉最後の「秀頼を頼み参らせ候」に何の覇気なき老人と言われる方も多いことを知っています。しかし、天下を取った秀吉が最後に子、秀頼の行く末を案じた、その姿こそ、人間秀吉のほんとうの姿として、後世までも語り継がれるべきであると思います。

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 (伊藤博文もそうじゃないか?)父十蔵が長州藩史・伊藤家の養子となったため伊藤性を名乗り、吉田松陰の松下村塾に学んだ後は、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、井上馨、山県有朋らと倒幕運動に奔走した、とありますから、維新時中心となった下級武士の一団に属するのではないかと思います。やはり、おっしゃるように秀吉の(秀吉がすごいのはまったくの裸一貫で天下人に上り詰めた事です。)とはくらぶるもなく、あくまで既存武士社会の中での出世ではなかったでしょうか。しかし気骨ある明治の元勲伊藤博文の評価をおとしめるものではもちろんありません。士農工商300年の歴史が固い身分制度を作り上げていたのですから、無理もありませんね。それを考えると明治維新は大変な改革であったと思います。「あずま男と京女」、勤皇獅子達(薩長)にとって京女は眩しいものがあったのではないかと思います。その中で明日の命も知れず天下国家を語り、大いに飲み大いに女を追いかけた。それは大気にもなれるかと。(さらにもう一点は、女好き)伊藤博文、英語力で総理になり、色豪ぶりでもナンバーワン!伊藤博文、井上馨、品川弥二郎、山形有朋、後藤象二郎、陸奥宗光などの艶聞はキリも無いそうですね。中でも、伊藤博文は世渡りも女渡りも上手くてとありますが、 お梅夫人公認であったと言われているそうです。戦後国会で妾を多く持っていると野党の攻撃を受けた大物政治家がいたそうです。「誰一人として泣かせたことはない!」と一喝したとのことです。最近の政治家のスケールが小さく見えて仕方ないのは、こんなところの違いからくるのかなと思う私の考えは受け入れられないでしようね。(三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい 高杉晋作)政治に限らず男は側にいる女の目を一番気にし、その為に一生懸命になる生き物と見ますが、これもご批判あるやも。秀吉=おんな好き・・・天下を取れたのも頷けますがいかがでしょう。

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 家康は女性選びを家臣に任せていたようです(山岡荘八)。自然家臣の気持ちとしては、おっしゃるように、多産系の女性を選んだことでしようね。また、処女は除外されたとありましたが、これはどういう訳か、よく解りません。対して秀吉はもういきあたりばったり、目の前の美女なら・・・という風に見えます。自分の好みで女性を選んで行ったように見えませんか。秀吉は小男といいますし、出自からしても「風に揺れる柳のような」深窓の女性に憧れたであろうことは容易に想像できます。こういった女性に子供は出来にくかったかと。(天才・秀吉の大いなる弱点ですね。)(習った人の文字とはとても思えないですね。)私も以前大阪城内で見たことがあります。おっしゃるとおりの感想を持ちました。「字は名を書ければよい、壮夫は成さず」という言葉を記憶しています。秀吉は戦いの明け暮れ。馬上を床としたであろうと思われます。彼の字が書けないところに私は深い愛着を覚えまた戦場に目を輝かす秀吉の姿が浮かびます。

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 北政所宛豊臣秀吉自筆書状によりますと、豊臣秀吉の書簡は、心情の直接的な表現が多く、近親者に対しては平易な「仮名書き」書状が目立つことでも知られているとあります。その内容を見るとほんとうにねねへの気遣いが見られ、そこまで言うかとの感がします。(我ら夫婦は、もう子供はいらぬと決めたはず…)と秀頼誕生に対する気遣い(今度の子は淀一人の子という事で良いではないか)で締めくくられているそうですが優しいですね。しかし、秀頼誕生を聞いた秀吉は名護屋から大阪城へ飛んで帰り二度と名護屋へ戻らなかったとあります。

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 神前結婚式が日本の伝統的なものという解釈をしている人がいますが、決してそうではない。江戸時代まではなかったものだということだそうですね。当然秀吉の時代にはないでしょう。ヨーロッパの慣習から見ると、日本人は結婚をするときに神の許しを得ていない。何人とでも結婚できる人もいる。離婚が簡単にでき、離婚しても再婚の妨げにならない、などとフロイスがたまげて書いているそうです。この頃一般庶民は、既に男女間の性交があり子供があって嫁入りをしていたと言いますから考えようによれば現在のできちゃった婚に近い?のでしょうか。明治の始めまでは男性が女性の家へ通う「婿入り婚」だったそうです。どうやら岩倉米欧使節団から始まる西欧化政策がそれまでの因習を徹底的に砕こうとしたのでしょう。逆に、少しやりすぎじゃないのと伊藤博文が外国高官からたしなめられるほどであったとか。結局秀吉の生きた時代処女性にこだわる文化は我が日本には存在しなかったのかなーと。今がよいのか、当時がよいのか、どうなんでしょう。チャペルウエディング全盛の日本はどこへ向かっているのでしょう。でも若い人達はゴンドラに乗りたいんでしょうね。

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 安土・桃山時代で特筆すべきは、天下一の称号付与制度が作られたことではないでしょうか。信長・秀吉が推奨したこの制度が民衆に与えたものは大きく商工に携わるものだけに限らず励みになったと思います。それまで、天下という概念がなかったかも知れません。「天下一号を取者、何の道にても大切なる事也。・・・」秀吉は書簡にも好んで「てんか」と書いたそうであります。そうです、彼こそ第一号にふさわしいですものね。元亀元年(1570年)に制定され天和二年(1682年)に廃止・禁止とあります。100年以上も続いたのにどうしてなくなったのでしょう。

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 本能寺の後の信長の葬儀は、勝家・お市の方とのからみがあり興味深いものがあります。一応これは又としまして、秀吉は信長の遺体がないわけですから、白檀で作った木像を変りとしたのではなかったでしょうか。そのよい香りが京の町を包み込んだとあります。お香はご存知のように今でも非常に高価なものですよね。東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)についての逸話はおもしろいと思います。この寺の正倉院を開いてこの香を切り取ることが、権力者の願いだったんですね。東大寺には義満、信長、明治天皇の記録のみとなっているそうですが、もちろん秀吉、家康が見逃すはずなく、秀吉にいたっては、決まった手続きをとやんわり断る東大寺を無視して強引に黄熟香、紅沈香の両方をちゃっかり切り取ってしまったと読んだことがあります。そんなもん世界にあるわい!とでも思ったんでしょうか、香木に興味を 抱いた秀吉は、ベトナムに人を派遣させホイアンと言う日本人町を作ってしまったそうですから、大気ですね。

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 「太閤記」の一つの名場面を思いだしました。全国の諸大名居並ぶ中、家康が秀吉の陣羽織を所望する下りです。「家康がこうして参内したからには、殿下にはもう陣羽織をお着せもうさじ」平たくも何も、これからは戦は家康にドーンと任せなさい、と言っているわけですね。やはり、信長が家康を親類扱いした例に習い、朝日姫の婿としての家康に配慮したのでしょうか。「切り取りしだい」の時代でありますから、子飼い大名に手柄を立てさせ領地を与えたかったんでしょうか。秀吉は朝鮮は言うに及ばず、明をも恐れてはいませんでしたね。秀吉死後、この戦が集結されたことを見ても解りますし、戦国を戦ってまもなくの秀吉連合軍は、その当時最強であったことは、容易に想像できます。どうして家康は出兵しなかったのでしょう。

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 賎ヶ嶽(しずがだけ)の勝家との対峙と、小牧・長久手の家康との戦のありようが非常に似ている気がします。それは、双方が「先に手を出したら負け」とでも言っているようであります。秀吉は、勝家を誘い出す為苦心しています。佐久間が秀吉本隊がいないと思い、打って出たところを迅速に引き返し殲滅しましたね。これと同じく家康の時も、いろいろ誘い出しを行ったようです。秀吉が尻をまくって囃したところ、痛烈な矢文を返され逆に怒ったそうですね。卑賤の出を突いた例の文であります。また重臣を失ったのも、「中入り」といってこの時代の新戦法でしたが、先に手を出してあの結果でしよう。それで、疑問に思うのですが、どうして先に手を出すと危ういのでしょうか。攻撃は攻めであり守りではないはず。先手必勝はこの時代の戦では下策だったのでしょうかね。

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 戦は簡単に定義づけできませんよね。兵の寡多、強弱、士気に地の利まで加わってきますね。只、小牧・長久手の場合、秀吉10万 家康3万の兵力差があったように聞きますが、これはどうしたことでしょう。秀吉の兵が張子の虎だったとはどうしても思えません。関が原のときも西軍は東軍を兵数で勝っていました。数字では計れないものがあるんですね。(家康を撃滅できるものなら、小牧・長久手の時、撃滅していたと思うんです。)秀頼のことが見通せていたなら、必ずそうしたでしょうね。(長篠戦を見れば明らかで)秀吉も家康も同じ戦場で戦ったことが多くありますね。同じ教訓を共有する将が、この度は敵味方に別れて戦う訳ですからやりにくいこと、この上なかったかも知れません。陣地戦ともなれば背後が気がかりですが、家康はこの時期北条と友好を深め万全であったのに対し、秀吉背後は四国、九州ともまだ未平定ですし、越前丹羽も篭って出てこないという爆弾を抱えていたようです。長期戦ともなれば、秀吉の方が不利であったように思えます。

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