太閤記に関する覚書 7 Index / Top
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 日本文化は羊羹(ようかん)みたいなものでどこをとっても同じ味のように思える。といったドイツ人がいたそうです。確かに羊羹型の文化かも知れませんね。それなら、かまぼこもトーフもみんなあてはまりそうです。しかし、みやげもの売り場へ行ってごらんなさい。羊羹にもいろんな種類があることを知らない外国人が多いのではないでしょうか。さてこの羊羹にも、あるとき突然劇的な出現があったのではないかと想像します。(もちろん、なかったかも知れませんが)前田利家は若い頃、ばさら大名と呼ばれていたそうです。『ばさら』とはサンスクリット語のvajraバジラ(金剛)から転訛したといわれるそうですが、華美な服装で飾りたてた伊達衆をさし、既存のものを否定する人達などを指して、そう呼んだみたいです。それなら、戦国大名の多くは『ばさら』じゃなかったでしょうか。バジラ?ここからゴジラが生まれたか?話しがそれていきそうです。・・・で、こういった『ばさら』達によってのみ新しい社会が生まれるような気がします。この時代に浸ること1ヶ月以上経って思いますに、よく明治維新と言いますが、維新は彼ら『ばさら』が闊歩した、この太閤の時代に一つの完成を見ていたように思えます。明治維新の土台となる、お手本は既に出来上がっていたのではないでしょうか。この、暗い世相?の今こそ平成の『ばさら』達が活躍して欲しいと願うこの頃です。羊羹と『ばさら』が、うまく繋がっただろうか心配しています。

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 昔みた映画で、中村(萬屋 )錦之助が信長役で、父の葬儀にズカズカと現れ、位牌に向かい香を投げつける場面がありました。不思議なことにこの場面しか思い出されないのです。もちろん、子供心にも深い悲しみはわかりましたよ。うつけ、たわけと老臣達はささやき、品行方正な別の兄弟(誰でしたっけ)を後継ぎにと相談するわけです。諌めようと誰か爺やが腹を切るんでした。後世、あれは敵を油断させる為だとか何とかいろいろ書かれているようですが、ほんとうであれば、私は大たわけであったと思います。この、うつけ、たわけ、は なかなか真似のできないものです。あの時代を切り開く為にはこの『うつけ』『たわけ』がどうしても必用であったと思います。新しいもの好きな信長、そのソバにあった秀吉がこれもまた、天衣無縫、大風呂敷ともいえる生き方をやりました。正に、よいコンビであったと思います。焼香の話しに戻りますが、浄土真宗では香を頭にいただき、会釈しながら三回香炉に手向けるという作法は取りません。只一度香をつまみそのまま香炉にまぶすだけです。知らない方から見れば大変横着のように見えるかも知れません。信長はこれに習い、既存の宗派から横を向かれたと想像しています(もし、史実であればのハナシですが)

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 豊臣秀吉の人心収攬術と書きますと何か策士のようでありますが、秀吉は仕官して10年後にやっと足軽組頭になったわけで、決してシンデラレ・ボーイなのではありません。秀吉は同僚よりも、チョットそこらで知り合った当時名もない人々との信頼関係を地道に重ねていったと思います。蜂須賀家などはこのよい例です。秀吉のとった出世払い「今は何も報いることができないが、自分が出世していけば必ず報いる」と真顔で言われ人生を賭けた人達のいかに多いことか。これを処世術と言ってしまえばそれまでですが、普通の方が同じ真似をしても、それは猜疑心を煽るばかりであり、誠意を感じさせる何かが秀吉にあったとしか思えません。「信長の家来にはなりませんが、あなたの家来にならなります。」前野将右衛門、蜂須賀小六、それに軍師になった方もそうだったように記憶しています。「あいつは信じれる。」太閤秀吉の天下取りはこの上に築かれたものです。

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 豊臣秀吉にはこれといった武辺話がありません。これは、常に「大将」を意識していたものとも考えられます。「大将たるものは後日の大事を心掛けたもうが肝心、端武者(はむしゃ)のごとき働きして命を落とされて何となさるおつもりか」これは、三方ヶ原ではやる家康を諌めた、夏目某の言葉だそうです。確かに世に言う「七本槍」でも、秀吉旗のもとで、武将達は功を競っています。大将は動かぬもの、その下で働くものの評価をしっかり見届けるのが役目とも申せます。大将さえ生き長らえれば、敗れてもまた盛り返すことができる。子孫も安泰であろう。戦国武者達の必死の戦いが想像されます。大将一人で全ての兵と比重は同じ、大将とはそういうものではないでしょうか。

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 三方ヶ原で家康の身代わりで死んだ「夏目吉信」に関しては続きがあるそうです。彼の息子が流浪する事になりました。本多忠勝に助けを求めたそうです。話を聞いた家康は「夏目が息子なら」と助けたそうです。(夏目漱石はこの吉信の末裔であると、)漱石はちょっと読んだことがありますが、明るい「日溜り」のような感じを受けています。物足りない感もしましたが、若いころの読書はそうなるのかも知れません。・・・吉信は「端武者のごとき働きをなさって何の益がござろう」と諌言して、轡を強引に浜松城へ向け、馬尻を槍の柄で叩いた。ようやく家康が走り去ると、敵に向かって突き進み、与力ともども討死した・・・とあります。

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 豊臣秀吉の小田原攻めでは、秀吉の命を受けて、天徳寺了伯が活躍したそうです。了伯は還俗して佐野政綱を名乗ったとあります。天徳寺公いわく、かって謙信、信玄公に会ってその威に打たれ顔も上げられなかったが、秀吉公は気楽に声をかけられ、「もそっとこっちへ」と上座から降りてこられ肩を叩かれた。まこともって・・・人は我を知るものの為なら死ねる、と申します。人の世は、書き付けなどで動くものでなく、人と人の血の通いで動くものとわかっていても、それをこうも鮮やかに実践できる秀吉、決して演技でないところに人は惹かれていくのでしょう。

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 慶長7年、江戸大火を唐沢山城から見た佐野信吉(天徳寺政綱の養子)が江戸城に駆けつけたところ、家康に「江戸城を山から見下ろすのはけしからん」といわれ廃城となったそうです。かつての城主天徳寺政綱が豊臣秀吉と仲がよかったからとの言い伝えもあるそうですが、これはいた仕方のないことかも知れませんね。

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 加藤清正の母は大政所の妹であったそうです(青木家系図)。以前書きました「七本槍」行賞として、福島正則が五千石の加増に対し、清正は三千石の加増だったことに怒り「虎之助高声ニナリテ市松モ御一家、我等モ御爪ノハシナリ」と不満をぶつけたそうです。親類であることを、「御爪ノハシ」との表現はおもしろいですね。この清正公が、大酒飲みであったと言われている正則公と、大阪落城後の風あたりが強まるなかで、話をする場面は悲哀を誘います。「めったなことは言うまいぞ、一戦覚悟の上でなら別である」とやさしく正則を諌める清正がとても好きになりました。豊太閤の大きな翼の中で縦横無尽に活躍した二人。戦国の世でしか生きれなかった人達であったかも知れません。

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 ヨーロッパは貧しく、アジアは富んでいた。この時代をそう評価される方もおられます。マルコ・ポーロも、コロンブスも小さい地中海の庭から、大海原に飛び出した冒険者であっただけのことなんですよ。マゼランも、バスコダ・ガマもみんな若いこころをときめかせ、冒険の旅に出たと思います。彼等の伝記はずっと以前読んだことがあります。何事も最初の動機の崇高さは、後続の方々によって汚されるかも知れません。実際彼等を応援した国王達の求めたものは?インド、中国、アジアはこういった大航海時代によっていろんな影響を被りました。そのヨーロッパ諸国と同じ又はそれ以上のレベルに、太閤秀吉の日本があったという事実は、感嘆することだと思います。あの当時日本が強力な太閤政権であったことは、日本にとってよかったことであると思われますが・・・。ご意見あればお伺いしたいテーマです。

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 秀吉と同等の存在感として伝わる「利休」とは。堺の中堅納屋衆、千与兵衛の子。幼名を与四郎と。生年諸説、定説は大永2年(1522)誕、享年70歳。現在の社会において伝統としての「茶」の隆盛から利休がもて囃されるのでしょうか。それとも実際に秀吉と対極を極める程の存在感があったのか。これから少し調べたいと思っています。秀吉と肩を並べるとは到底思えませんが、これからどう考えが変るか自分でも解らないところがおもしろい。

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 「珠光ノイワレシハ、藁(ワラ)屋に名馬繋ギタルガヨシト也。粗相ナル座敷二名物置キタルガ好シ」と珠光は言い、そのあと初心未熟なものが名人上手をまねて、わびた陶器など使用し猿まねする愚かさを固く戒めたとあっては、手厳しいですね。このころの堺町人をフロイスは、堺の町民の傲慢で気位の高いことは非常なもので、彼等はただ欲望をほしいままにし、暴利をむさぼり逸楽にふけり、快楽にひたって飽く事を知らなかった。とバッサリ、彼等は自分等が天国に至るに、俗世の名望を棄てなければならないのなら、天国など生きたくないと言い切る始末であった、と嘆いています。太閤秀吉が相手にしなければならなかった堺衆の一端がうかがえます。

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 天正18年、小田原北条攻めの折、秀吉は好きな能を本陣で演じていた。その前を通る諸群の将、いずれも下馬し通る中、ひとり馬上悠々進み行く将があった。秀吉カンカンに怒り、怒髪天をつく・・・縛り首にせよ、いやいや切腹にと大騒ぎ。将、涼しく「戦場で能をして遊ぶような大将に下馬する必要やあるべき云々・・・」秀吉余程くやしかったのでありましょう。考え二転、三転したと申します。「今天が下に、我に向かいかような大言、天晴れ武士なり。かかる士を殺さんは惜しきこと也。命を助け加増して使うべし」一躍、日ノ本一となったその武士は、宇喜多秀家の臣、花房職之(もとゆき)でありました。秀家、八丈島配流の折、毎年白米20俵送り続けたという、まこと見上げた武士であったといいます。

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 小田原攻めは、秀吉国内統一の最終段階であり、その兵力も22万というとてつもないものであったそうです。かたや、北条氏は領国の民、総動員しても5万という兵力で、勝負にならなかったと思います。では、何故、負ける戦を北条氏は執ったのでしょう。それはやはり、負けると思わなかったというしかないのではと。北条氏の頼りとする小田原城は、日本まれに見る市街地をすっぽり囲み込んだ堅城であり、武田、上杉などから過去敗れたことのない城であったといいます。この城に篭城して敗れるはずなきと思ったとしても不思議でなく、実際秀吉軍は落城させた訳ではありません。秀吉はこの城に驚き、後大阪城の構えに取り入れたそうです。秀吉はこの戦いの戦略を、城内敵兵の戦への士気をそぐことに絞って、前記、能の演舞となったでしょう。ですから、能を演じながら、秀吉は戦をしていたのです。北条氏など歯牙にもかけない天下人としての威容を、敵味方の前で舞ってみせた、まさに「天下の舞」であったと思われます。しかし、北条氏が最後まで秀吉に屈しなかったのは、やはり北条100年のプライドだったんでしょうか。謎が深まりそうです。秀吉の舞を「天下の舞」と持ち上げて、舞つながりでもう一つ。小田原北条に勝利した秀吉、本陣に諸将を集め大祝宴となりました。長期戦を想定していたので、自らは淀君、諸将には奥方を以前より呼んであったと言いますから、戦というより慰安旅行であったのかと、不謹慎な思いもいたします。ここで、舞を所望された織田信雄が信長ゆずりの能の才を発揮したそうです。絢爛豪華。ずらーと居並ぶ諸大名。「織田信雄、能は名人也。中々見事なる事言語道断也」と『武辺雑談』。しかし、この場にふさわしくない演目である、と秀吉怒りにふれ徐封追放となってしまったと読んだことがあります。実際は信雄が東海への移封を拒絶したことから、下野へ流されてしまったというのが、ほんとうのところではないかと思います。思いますに秀吉よりはるかにうまく能を舞って、秀吉のジェラシーを買ったのかも知れませんね。信雄、散々失敗をやらかしてきたように見えますが、私にはどうして、頑張って生きていたな、と思うところがあります。薪の炎に照らされ、凛々しく舞う姿に在りし日の信長を見たのかも知れません。

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 島津義久、細川藤高宛て、・・・羽柴の事は、まことに由来なき仁と世上沙汰候。・・・当家の事は、頼朝以来・・・羽柴へ、関白殿あつかいの返書は、笑止のよしどもに候・・・当、島津家は頼朝依頼の名家である。その誉れ高い当家が、羽柴へ関白殿下としての手紙を書かなければいけないのは笑止である。羽柴のような由緒なき人物に関白職など免許された天皇も軽々しい、と書いているそうです。フロイスにいたっては、「気品なく・・・恩知らず」などと罵倒し、「聖なる教えの最大の敵」「片手には六本の指がある」などと、まるで悪魔扱い。北条氏も秀吉を、きっとこのような見方をしていたんでしょうね。島津家はどうなったんでしょう。これからですね。・・・太閤様死去の報に、われわれは心から悲しんだ・・・と記しているスペイン人もいたと聞いています。その著著の中で、秀吉を褒め称える人々の噂を書いているそうです。

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 この時代いろいろな建築に付随して庭が造られました。観光地へ行きますとたいがい名庭を巡るコースがついているようです。日本の庭は、人間が入れる庭と入れない庭とに分けられるそうです。前者は回遊式であり、歩きながら池を楽しんだりできます。もう一方は、石庭のように観るだけのもので、その中に入ることは出来ません。どうしてこのような庭が出来てきたのか、ふっと疑問が湧きだしました。(南禅寺にある大きな石とか)がそうだかどうかは解りませんが、武士の勢力拡大に伴い庭園の有り様が変化したと研究されている方がおられるようです。それまでの公家社会の庭園は「徒然草」の『足らざるをよし』とする考え方であったそうですが、武家社会では庭は権力の象徴として、存在意義があり、巨石を多く並べたりする、いわゆる悪趣味に流れていったとか。大名の財力消耗を狙う何とも品のない金のかかった庭が多くなったそうで、研究する気が失せたと書いておられました。とすると庭はちょうど秀吉のこの時代までをよしとするのでしょうか?でもうんと財に任せた庭も豪華でいいな、と思う私は悪趣味になってしまうのかも知れません。(中潜りだの)って何でしょう。京都などでは必ず?中庭のある住宅が多いです。うなぎの何とかという造りの為でしょうか。家の中ほどにほんとに小さな庭が。とってもいい感じですよ。

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 寝殿造り系庭園を『作庭記』流というそうです。本物の書付が現存しており、重要文化財だとか。編者は橘俊綱(たちばなのとしつな)で父関白藤原頼通の指導によるそうですが、造園工事のバイブルのようなものでしょうか。池の造りかた、大海様、大河様、山河様、沼様、芦手様など、何となく素人にも分かりそうな感じですね。滝なども、布落、線落、左右落、横落などなど、想像できそうです。朱塗りの橋、平板橋、石橋のかけ方なども詳しく書いてあるそうです。浄土式庭園とか禅刹庭園というのもあるそうですが、名前からして寺院に付随するものなんでしょうか。

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 紹鴎の数奇屋意匠、少し後戻りしますが、若狭の国守護武田氏後裔にあたる信久、堺に住み、姓を武野と改め、長じて、新語郎と称し、中村と名乗った。上洛し大永八年、歌道を学んだとあり、朝廷より、従五位下因幡守に叙せられる。宮廷の人々と交際するを得、三十一歳にして、剃髪し紹鴎と号す。天文十六年『一閑居士』の号を受けるとあります。「山里に物の寂しきさまこそあれ、世の優きよりは住みよかれけり」浄土喝仰(かつぎょう)の思想とは?

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 何気なく、平和だなと感じることができる一番のものと言えば「お花見」ではないでしょうか。この時期にと思われるかも知れませんが、今咲いている桜もあるんですよ。さて、このお花見の元祖は豊臣秀吉ではありませんか。豊臣秀吉の散り際の豪遊と言われる「醍醐の花見」は有名ですね。この頃まだ「作庭の主役は緑が主体であり、城内に花を植えること自体が少なかった」と言います。この中にあって、真言宗醍醐派の総本山醍醐寺に、秀吉は四カ国の桜樹七百本余りを移植させ、一番に正妻の北政所、次ぎに西の丸殿(淀君)、三番に松の丸殿(京極氏)、四番に三の丸殿(織田氏)、五番に加賀殿(前田摩阿)の順で妻妾を御輿で従わせ、山内に新しく設けられた八つの茶屋を次々と徒歩で回ったとあります。女房衆が秀吉の何番目の連れあいかと言うことで言い争いになり「醍醐の花見の盃争い」も庶民の噂になったとか、賑やに話し合う町衆の息ずかいが伝わるようです。花見というものを庶民が知り噂にも話したこの「醍醐の花見」以来、庶民の間にもお花見が広がっていったそうで、太閤の残された一番のものが、この「お花見」であったかも知れません。

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 日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ、秀長、秀吉と使えた小堀遠州を指してそう言われるそうです。南禅寺方丈庭園は行ったことがあります。不思議な白砂の筋があったと思いますが、このような庭は、白い砂は川、石は島だと言われ、日本の伝統に培われた様式美だと思っていましたが、実は違うんですね。この、枯山水と言われる庭こそ、千年に渡る日本の庭園の歴史を打ち破った革命的な庭であったそうです。日本の庭園は、自然を移すこと、あくまでも自然のままであることを理想としてきました。自然の石で山を表し、池を引き、海に見立てたのです。しかし、小堀遠州は人工的に手を加えた枯山水という閉ざされた空間の中で、その才を惜しみなく発揮した天才であったようです。彼は書にも通じていたそうで、彼の書には不自然なほどの大きな空白が残されています。庭にも通じるこの余白こそ芸術と言えるものだと思われます。利休の『侘び』に対する遠州の『綺麗さび』と言われているそうで、遠州が幼い頃、声をかけてくれた、千利休は、その秀吉の命令で切腹。遠州の師匠、古田織部もまた、徳川家の命令で切腹、と激動のはかない人の世をまじかに見てきた者の到達する境地とはこのようであるかと思われます。

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 権威主義の大名庭園の悪い評価の中で、千秋閣、栗林公園、名古屋城及び二条城二の丸については、その評価は当たらないそうです。特に蜂須賀氏が修築した徳島城旧書院跡に残っている、桃山期の豪壮な大名庭園である『千秋閣庭園』は大振りの石を使用しているにもかかわら、繊細な美意識に基づいた石組で構成された奇跡の庭であるそうです。やはり何でも答えは一つではないようですね。ところで、この『千秋閣庭園』ってどう読みますか。せんしゅう、ちあき、せんあき、どちらでしょう。検索では分かりませんでした。徳島の方おられません?ぜひ教えてください。蜂須賀氏は大好きな大名ですから。

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