太閤記に関する覚書 10 Index / Top
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 第4代福井藩主松平光通公が大安禅寺の開基だそうですから、千畳敷もその時のものでしょうね。この、光通公は10才で藩主となったそうですが、当時の名僧、大愚禅師に教えをうけ聡明であったとされているそうです。やはり、秀康直系の孫ですから、その志も高かったと思われます。当時の石高45万石は大きく、隣の外様であった加賀103万石への抑えとしての位置づけであったのかと想像します。秀康、忠直と続く不遇の歴史には驚きを禁じえません。一つの藩を見てもこのようです。歴史は奥が深いですね。

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 秀長は最初の頃は「長秀」と名乗っていたとか。いつから「秀長」になったのでしょう。本能寺の変の前か後か気になります。戦国時代には、時の力関係で名前をつけることが多かったように見えます。「羽柴」もそうですね。苗字はしかたないとしても、名前は生まれた子の人生をある意味縛るような気もしますが、どうなんでしょうね。戦国時代みたいに、その時の都合で名前を変えることが出きればおもしろいかも。秀長は、 小竹→ 小一郎→ 小一郎長秀→ 羽柴長秀 と名乗ったそうで、中国攻めのときは既に「秀長」の記述を見つけました。ですから信長を意識してのものではなかったのではないでしょうか。(本能寺はまだ後ですからね)《天正13年7月秀吉は従一位、関白に叙任されたが、この頃秀長も参議、従三位に叙任され、長秀の名を秀長とあらためるようになった》ということは、秀吉の完全な天下になった時の改名であり、やはり信長と秀吉に対する配慮が名前に表れていそうですね。天正14年3月には、ガスパル・コエリヨ大阪城の秀吉を表敬の折り、秀吉は、日本国内平定の暁にはこれを秀長に譲り、自らは朝鮮・中国の平定に専念するつもりと語ったそうですから、この時期、秀長を最も信頼していたことがわかります。

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 「三国志」は劉備玄徳と曹操、それに呉の孫権でしたか、読んでいて日本の戦国時代のような錯覚を覚えたことがあります。しかし、あの壮大な物語も実は60年間のことであり、しかも結局誰も中国統一を為し得ることができなかったことなどを思えば、日本の戦国は起承転結そのものであり、大いに誇れることではないかと思います。その、秀吉偉業の陰にねねさまを第一に上げたいところですが、ここに秀長が登場するにつけ、その人柄に深く感じ入ります。「温和で、常に人々に愛情を注いだ」と言われている秀長とは。「すぐれた兄に比べれば、わたしは凡庸な存在で、みんなの助けを得なければ独り立ちできない」と、これを謙虚と見るか、そのまま凡庸と見るかは自由でありますが、秀吉にとって誰よりも頼りにしたであろうことだけは異論のないところと思います。名補佐役・名参謀といわれる条件の一番は「絶対表に出ないこと」だそうですが、どうしてでしょうか。

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 天正8年秀長40歳、この間正室、側室の記録なし。驚いたのはそれからです。天正13〜14年と言えば45歳くらいでしょうか。秀長は法華寺に参り、その寺の尼僧に一目惚れ!秋篠伝三衛門の娘興俊尼その人であったとあります。この興俊尼を城へつれかえり一夜の交わり、しかもたった一度の契りで子供が出来た。当然、破戒僧となった興俊尼は寺に留まれず、菊田某邸で、きく女を産んだそうです。菊田家は菊作りで有名だったとかで「きく」と名がつけられたんですね。また興俊尼は還俗して「お藤」となりました。尼さんから、いちやく郡山100万石の奥方となった お藤さんとその子 きく女、戦国の世なればのシンデレラ物語に思えます。しかし、これは秀長の生真面目とも言える性格が幸いしたのだと思えます。おまけに、このお藤さま、大政所とたいそう仲がよかったと申しますからこの時期の豊家はたいそう明るいものであったと感じます。その子きく女は、これまた数奇な運命を辿ることとなります。

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 戦国の世は「下剋上」の時代とも言われます。この「げこくじょう」という響きに何か後ろめたさを感じるのはどうしてでしょう。そもそも「下剋上」ってなんなんでしょうね。「下が上をしのぐ」という意味だそうです。どのようなとき起きるものかと言えばはっきり言って、上に立つ能力を持ちあわせず、また生活保障ができない者が上に立つときではないでしょうか。ということであるならば、「下剋上」に何の悪なく、逆に立派なことであると言っても過言では・・・、違うのでしょうか。「武士の忠義」とかは長期政権をめざす徳川時代になってから出来た言葉であるとか。「下が上をしのぐ」ようでは困りますから、「上が上らしくなくても上は上」と4つも上がつきました。「上が上らしくなくとも、下は下らしくしろ」と権利の放棄と義務だけを要求された武士社会となっていきます。戦国時代が明るく躍動感溢れて見えるとしたらこの「下剋上」のおかげかも知れないと思いますがいかがでしょう。

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 戦国の戦いを見ていますと、すぐに「お家の大事」とかが出てきます。上も下も「お家」の為に命を張っているように思えます。この「お家」の存続の為には、真田父子のように、兄弟が敵味方となっても家を残そうとするわけですね。お家とは、もちろん建物であろうはずがありません。その一族をひっくるめたもの全てを指すのでしょう。それではどうして、この「お家」が個人よりも大事になってくるんでしょうね。小さくは農耕をする為に「家」という集団が必用だったんじゃないかと思っています。大きくは、国と国との戦争は「家」と「家」との戦いであるわけですから、ここでも自己と他者をはっきり分ける為の「旗指し物」としての家が必要であったのでしょうか。この時代、国としての概念がない以上、家は国のようなものであり、それ以上、上が無いのですから、最高に大切なものであったと思います。明治時代を代表する有名な福沢は「日本には日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ」と嘆いています。ここでいう、日本政府とはそれ以前の歴史をもくるめて指していると思えるのですが。明治になり、西洋を見てきた時の指導者達、彼らは驚いて帰ってくる。何に驚いたのでしょうか。また、「歴史」の史とは「中正を記録する」という意味だそうです。歴史を中立の立場で記録しようとする場合、その基準となる拠り所が必要ですね。儒教であり、仏教であり、その時々の「道理」を持たない?現代においては、ますます歴史を記録することは至難となって来ているように思いますがいかがでしょうか。

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 「天王山の戦い」「山崎の合戦」または「円明寺川の戦い」とも呼ばれるそうです。秀吉にとっての関が原とも言えるこの戦いは、もちろん光秀との天下を賭けた一大決戦でありました。ここで注目すべきは光秀が負けるなどサラサラ思っていなかったことではないでしょうか。今でこそ「主殺し」などと暗いイメージが有りますが、当時戦国の世にあっては日常茶飯事のことではなかったでしょうか。有名な光秀於愛宕山連歌 には(時はいまあめがしたしる五月かな、光秀)(水上まさる庭の夏山、行祐)(花落つるいけのながれをせきとめて、紹巴)(国々はなほ長暇(のどか)なる時、光慶)とあり光秀の覚悟が詠み込まれているそうです。「土岐は今」と詠んだ光秀に敗戦など微塵も考え及ばぬことであったと思いますが、光秀敗戦の最大の原因はなんであったのでしょうか。

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 光秀敗戦の最大の原因は織田家への途中仕官ではなかったでしょうか。織田家へ仕官する前、将軍義昭に仕え、そのこともあっていきなり信長より高禄で召抱えられたことが、織田家の中で特異な存在であったのではありませんか。その点ではサルと呼ばれた秀吉の方がまだましであるとの空気があったのではないかなどと。以前の主である義昭を守ることすらできなかったものへの不信感もあったかも知れないと思いますし、光秀の天下仕置きへの不安感があったのでは?どうなんでしょう。この織田家の内紛とした秀吉の戦略勝ちであったと思えます。戦後、出陣中の家康に「戦は決着、早々にお引取りいただきたい」と織田家内のことであると印象させた秀吉の手並みはさすがだと思いますが。的はずれかも知れません。

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 朱子学は身分秩序を重視する学問とのことです。下剋上の時代を生き、底辺からのし上がった秀吉はこれに何の関心も持たなかったが、幕府を樹立した家康は安定した国内支配をするための精神的な支えとして、朱子学に強い関心を示したそうです。儒学のなかの朱子学を体系化した藤原惺窩(ふじわらせいか)は秀吉や家康に朱子学を講じたという記述も目にしますから、秀吉はこれに何の関心も持たなかったというのは当たらないかも知れません。家康からは仕官を要請された藤原惺窩はこれを断り、弟子を推挙したそうです。後の林羅山であったそうです。このことを見ても藤原惺窩と秀吉の関係は深いものを感じますが、どうなんでしょう。

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 無理難題の代名詞のようになっているのが、秀頼による京都・方広寺大仏殿梵鐘の名文であることは有名です。これに係ったとされるのが、朱子学の林羅山、それに僧 崇伝であると言われているそうですが、確かではないそうです。「国家安康・君臣豊楽 / 右僕射源朝臣」これを始めて聞いたときは大変驚くとともに、大人社会のいやな面を見た気持ちがしたのを記憶しています。建立を促しておいて、完成するやいなやのこの無理難題。正し事実であったらのハナシですが。戦を始めようと決めたものは、もうどのようにしても止めることはできないという よい見本のようなものですね。

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 (戦国においては、暗君や暴君は倒してもよい、といった下剋上の時代)確かに臣が主人を選ぶことができたような時代であったようです。いろいろ主人を変え渡り歩く豪傑が持て囃されたことでしょう。ですから特に浪人対策は偽政者にとっての最大の関心事であり、秀吉亡き後の大阪城の財力を当てにして諸国から集まった関が原浪人を徳川方はたいそう恐れたのではないでしょうか。先ほどの大仏殿建立などもその財力消費を狙ったものであることは、ある意味仕方のないことであったと思われます。腕一本、槍一筋の時代はここまでとなるのでしょう。インターネットもこれからいろいろな規制がかけられていくそうで、戦国?の世の終わりも近いかもしれませんね。秩序ある時代はある意味で魅力のない時代と言えるかも知れません。

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 大変おもしろい説だと思います。このことは、もう既に多くの説がありますので、考える余地がないのかも知れませんね。私もできるだけ自由な発想をしてみたいと思います。秀吉は本能寺の変を聞いた時震え上がったのではないかと思います。手ごわい毛利を前にして、兎に角「逃げる」ことしか浮かばなかった?それがあの中国大返しのスピードであったのではないかと。もたもたしていると挟みうちに合いますからね。姫路城までたどり着いたときほんとうにホッとした。落ち着いてみると、自分に味方してくれるものの多くに驚き、それならと・・・。ですから、秀吉というよりも周りから自然に天下を取れとの声が沸きあがった。それに引きずられただけというのは、考えが甘いでしょうか。どうも、ただ突進した、それだけに見えて仕方ないんですね。ですから光秀のほうがどのように対処しようか図ることができず、あっと言う間に敗れさった。きっと光秀は最後まで敗れたことが不思議だったように思えてしかたありません。

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 明智光秀が羽柴秀吉への備えというよりも、北国の柴田勝家の方に目が向いていたことでしょう。実際、勝家はこの時期、上杉謙信亡き後の上杉に対し、越中を手に入れており、秀吉の対毛利よりはるかに動き易かったと思われます。ですから光秀としては、兵を近江に集め安土近辺を制圧することにし、また勝家に備えたと思います。このことが、河内方面の兵の少なさを見た、西国街道ぞいの諸将の進退に大きな影響を与え、秀吉大軍大返しの報に進路の諸将がなびくことに繋がっていったと思われます。いずれにしろ、光秀は両面作戦を考えなければならず、秀吉と勝家いずれかにでもよしみを通じていれば随分展開も変ったことでしょう。詮無いことではありますが。

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 この時代、「阿弥」という語がたくさん出てきます。秀吉の父にも。またこの時代の芸能に多いですね。時宗の教徒が「阿弥」になることによって、身分の格が上がったようです。これまでの時代、すぐれた工芸品を作ってきた技術者は名前を残すことはなかったといいます。「阿弥」という名を持って、最低階級の秀才達が一流文化人としてその時代の最上層部と肩を並べることができるようになった画期的時代の到来であったそうです。「いけばな」も例外でなく、この戦国期に大発展したといいます。このいけばなについては、最近まで不思議に思っていたことがあります。相当年配の男性の方がいけばなを教えておられます。お聞きすると、若い頃はこのいけばなを習っていた方は男性ばかりであったそうです。「生け花」は女性がするものだとばかり思っていました。今日「花」という本を読んでいますが、その中に終戦前まではそうであったと書いてあり驚いています。いけばなは男性のものだったんですよ! これは何を意味するんでしょうね。

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 (明智光秀が羽柴秀吉への備えというよりも、北国の柴田勝家の方に目が向いていたことでしょう。)そうだと思います。只、勝家は自分以外に光秀を打てる者があろうはずもないとの自信から、戦局を見誤ったところがあるとの指摘があります。ですから、秀吉ほどの迅速さがあれば、天下は勝家(または光秀)のものであったと思いますがいかがでしょう。(秀吉大軍大返しの報に進路の諸将がなびくことに繋がっていったと思われます。)この秀吉大返しが可能であった一つの原因は高松までの兵站が以前より出来上がっていたことであると思います。信長に出陣依頼までしている訳ですから万全の体制があったと想像できます。ハナシでは村々の炊き出し云々ということになっていますが、それ以前にこの大返しの道々は既に整えられているわけですから、容易に大軍の移動が可能だったんですね。これは後の小牧の戦いの時も同じであったと思います。また、秀吉は朝倉攻めの時の信長のすばやい後退を見ていますから、戦に機微であったということも幸いしたのでしょう。

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 そう言えば「天道」にそむくとか聞いたことがあるようです。この藤原惺窩は後に家康の仕官を断って羅山を推挙していますが、この羅山の説く朱子学によって「国家安康」事件となり、豊家が滅ぶこととなったとしたら、徳川最後の慶喜もまたこの朱子学によって幕府を終えることを決心したという説を読んだことがあります。偶然とはいえ「天道」に繋がる深い因縁のようなものを感じます。

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 天王山において光秀が 組下諸将の多くに参陣を断られたことは今以て謎の多いところですね。特に当てにしていた縁戚からの拒否は大きかったと思います。その一人に筒井順慶がいたと思います。順慶は2才で親を亡くしましたが、謡曲、茶湯に優れ教養高い武将であったと申しますから、時の教養人であったと申せましょう。「元の木阿弥」とか、「洞ヶ峠をきめこむ」など現在に至っても使用される言葉を残し、影響は大きいものがありますね。地元では、奉賛会みたいなものがあるようで、なかなか愛されている武将であると思いました。しかし、この天王山の戦いにおいては、「日和見」という有りがたくない烙印を押されたようです。私がおやっと思ったのはこの時、家臣に「左近」がおり、左近は光秀に組するよう主人順慶を説いていたそうです。この左近とは、後の石田三成の名参謀として名高い「島左近」でありましょうか。もしそうであるなら、大きな局面で、左近は2度の失敗をやらかしていたことになるのでしょうか。ちょっと興味が湧いてきました。

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 洞ヶ峠には、光秀がいたという、真に皮肉なことですね。洞ヶ峠に陣を張った光秀が、息子を養子に出した上に六ヶ国を与えると順慶に伝え、吉報を待ったのでしょうが、常日頃、光秀は「武士の嘘を武略という」などと、うそぶいていたそうです。これに対し、秀吉からは特別なものはなく、その為逆に強い圧力を感じたと思われます。今でもそうでしょうが、弱い陣営からは、多大な褒賞見返りがあるそうです。強い代議士先生は具体的な公約をしませんよね。しかし、筒井順慶の動きには興味がつきません。光秀が味方をしてくれると信じていた男が、秀吉につくとはどうしても不思議です。

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 筒井順慶が迷った理由を考えていたのですが、この時期の大阪の動きが気になります。光秀が大変頼っていたと思われる武将に信澄(信長の弟の子でしょうか)がいます。信澄は光秀の女婿でありますから、丹羽長秀と織田信孝に疑われるところとなったそうで、実際首を討たれています。このとき二十八歳と言いますから、長秀と信孝がはやまったような気がしてなりません。父は信長に討たれた?とはいえ存命を許されていた訳ですから、以外と・・・。この光秀に味方しそうであると考えられた信澄のしが、順慶に与えた影響は大きかったと思います。なにせ領土を接しているのでしょう。以後大阪からの長秀と信孝の圧力を受けることになりますからね。また順慶の領有していた、大和の地は光秀の斡旋によるところであったと申しますが、ことあるごとに恩着せがましい態度を取られていたのかも知れないと思うのは 巷にいうゲスの勘ぐりというものかも知れません。

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 天王山も洞ヶ峠も現在高速道路が通っています。京都南ICを過ぎ吹田との間だったと思いますが天王山トンネルがあるところですね。何度も通ったような気がしますが、秀吉と光秀がこんな風に戦ったと意識したことがありません。今度通る時はきっと気になると思います。勝家の動きが鈍かったように前に書いたように思いますが、勝家の重臣である柴田某は光秀のこれもまた重臣(家老)である斎藤利三の姉妹との強い結びつきを指摘する説もあり興味のあるところです。この縁により、勝家・光秀とが先ほどの信澄を盟主にという謀議が出来ていたとすれば、確かにいろいろな疑問が氷解していくようではありますね。この三人には信長に対する動機を数えることはできそうです。毛利が秀吉大返しの追撃を諦めたのも、ひょっともして、こういった情報分析があったのであれば、頷けるところです。信澄のしには不可解なところがありますから、こういった考察が生まれて当然かと思います。信澄のフルネームは「津田信澄」で織田でないところに何かを感じますが大きく的を外れているのでしょうか。

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