太閤記に関する覚書 6 Index / Top
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 「金のシャチホコ」から、大盛況ですね。素朴な疑問って大事だなと思いました。新潟県新発田市の新発田城三階櫓には三匹の鯱が飾られていました。ですから「鯱は対」でもないようです。しかし、この城は天守の屋根が独特の形をしていたからとも言えそうです。新潟と言えば上杉謙信の城だったんでしょうか。(どうして「サカナ」なんでしょう)想像の魚である「鴟尾(しび)・鴟吻(しふん)」が元で、伝説では、この魚は水を噴き激しい雨を降らせるので、漢では火災除けのマジナイとして使われていたそうです。日本では、南北朝時代の厨子に使われていたそうですが、天守に使用されたのは、安土城からである、は有名ですね。「しゃちほこというをあり」(天守指図)また、「大阪夏陣図屏風」には、くっきりと大阪城の鯱が描かれています。

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 日本の狛犬のルーツは平安時代からと言われているそうですが、実際に人々の目に触れられるようになったのは1600年頃と言いますから、ちょうどこの戦国期ではなかったでしょうか。神社などで対になったものを多く見かけますが、時代や場所によって様々なものがあったそうです。犬というのに獅子に見えますから、きっと鯱のように想像の動物なんでしょう。ご紹介にもありました鬼瓦も興味があります。瓦と言えば、当地の屋根はねずみ色の瓦がほとんどですが、北陸トンネルをくぐると、青い瓦が目立ちます。その地によって瓦の色が変るのも歴史からの影響があるんでしょうか。まさか赤い瓦はないでしょうね。変った色の瓦ご存知の方は教えてください。

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 寒冷地では、土瓦の使用は凍って不可能であり、丸岡城天守は石瓦葺きである。また諏訪高島城天守は板葺きである。金属瓦もあり、名古屋城などでは銅瓦が使われた。金沢城では戦時を考えて、鉛瓦を使用したにいたっては、もう驚きます。銅瓦なら、緑ショウが噴いて屋根が青くみえるんでしょうか。またいざという時の為鉛瓦を使用した前田家は、ほんとうにすごいですね。そう言えば、加賀の伝統工芸も一朝事あるとき武具の生産の為、職人集団の温存を図る為であったと。町中が細い道で入り組んでいるのは、敵を容易に城へ近づけない為だとか。加藤清正も熊本城築城の折、土壁に草をまぜ、いざ篭城の折りの食料不足に備えたんですね。「土を食べてでもがんばる」は文字通りのことだったんです。

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 (熊本城の土壁にはカンピョウが塗りこめられており、それを西南戦争でお城に篭った官軍(?)が食べたんだそうです。)やっぱりね。どんな料理にしたんでしょう。カンピョウってお寿司の中に入れるアレですか。生でも食べれるんでしょうか。(大坂城の三の丸の掘から豊臣家の五七の桐の紋がついた金箔瓦が)桐文鬼瓦と金箔瓦は、豊臣秀吉政権下において厳しい制限が加えられていた瓦で、それらを用いることのできる大名は非常に限られていたそうです。金箔瓦は、特に豊臣政権下において豊臣政権の威信を示す瓦であったといいます。秀吉の全国統一過程における足跡を追跡調査するときにかかせない重要資料となるそうです。福井城跡からもつい先だって発見されましたが、上記に照らして、柴田勝家の時代か、結城秀康の時代のものであるかどうなんでしょう。

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 「陣中食の優劣が歴史を動かす」戦国時代に足軽として戦場に赴いた人々が非常食として腰にぶら下げ、食べていたのが信玄の耳に入り、「米の代わりになる」と、陣中食として広まった「ほうとう」というのがあるそうです。小麦粉を練って作る白い麺だそうです。また石川には、秀吉時代の兵糧奉行、岡部治部右衛門が、朝鮮料理を基にして作った陣中料理があって、治部右衛門の名をとって「じぶ煮」と呼ばれるものがあるそうです。カモの肉だそうですが、まだお目にかかったことはありません。治部というからてっきり三成のことかと思いました。実際の戦闘には、やはり味噌と米だったんでしょうね。生米は食べてはいけない、と大将が兵卒に言っている場面、読んだ記憶があります。

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 金箔瓦は雲上のこととして、一般の国民が瓦拭きの屋根を持てるようになったのは、大変最近のことなんですね。「瓦葺きの禁止」があったみたいです。以前地主であった方から直接お聞きしたんですが、一つの町村で何軒かしか瓦葺の屋根はなく、あと杉皮を引いて石を乗せただけの家がほとんどであったとのことでした。瓦を拭くには許可がいったとか。庶民に瓦が届くには大変長い時間が必用とされたんですね。江戸時代には、財力を持った町人に贅沢な屋敷を造らせない政策がとられたらしいですし、このことが田舎では続いていたんでしょう。瓦!大事にしましょう。今なら金箔瓦も夢ではありませんよ。

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 秀吉出世談で必ず出るのが、清洲城の塀の修理です。・・・弘治三年の五月雨で、清洲城の壁と石垣が百間(120メートル)ばかり崩れてしまった。城の修復工事に取り掛かったが、1ヶ月経っても工事がはかどらなかった。信長は怒って作事奉行を呼び付けて詰問したが、あいまいな釈明に終始した・・・秀吉登板となり、五百人の人夫と銭三百貫文を預かり、自ら城普請の役を買ってでたんですよね。秀吉は職人をいくつかの集団に分け、競わせ一番速かったところへ、ホウビ(ボーナス)を出すことにします。又、いつでも現場を見て回っていたそうです。また、昼から、酒肴も出しましたが、酒肴もそこそこに働く職人がほとんでであったといいます。ボーナスの起源はアメリカでは産業革命真っ只中の19世紀、日本では、1876年に三菱商会が賞与制度を始めたのがボーナスの始まりだそうです。秀吉は既にこの制度の本質を、なんとこれよりはるか以前に理解しており実践した経営者第1号とはいえませんか。

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 ・・・豊臣秀吉が身分統制令を出して以降、日本の社会は身分の秩序の上に社会が成り立っていた・・・などとよく目にしますが、これは確かではなく、「身分を統制することが目的ではなく、朝鮮出兵に備えて、兵力と兵粮米の生産者の数量の確定を目指したもの」であると言われているそうです。何故こんなことを言うかといえば、以前書きました「鎖国」という言葉への疑問から続いて「士農工商」への疑問が湧きでたからです。これもいろいろ調べますと、明治からの教科書に始めて出てきた言葉であるそうです。ごく最近教科書から姿を消したと聞いて大変驚きました。お金で士分を買えたり、町人と武士の間での結婚も出来たそうでありますから、その垣根はあいまいであったそうです。このように、当たり前に信じていた言葉も、その時代になく後世の政治事情によって造語されることがあるんだな、というのが最近の感想です。確かに、「四民平等」に対しての「士農工商」は解りいいですね。

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 「大番」という小説がありますが、これは太平洋戦争を挟んで、農家のせがれが出世していく話しです。世話になっている、海軍士官の奥方に惹かれていくのですが、身分、教養の違いにいつもピエロのような役回りをして、奥方が笑うのを生きがいに感じている、そんな風です。この主人公は株の道に入り巨万の富を築きますが、時あたかも、戦争に突入し、思慕する奥方の海軍士官は出征散華していくことになります。そして終戦となり、未亡人となった奥方の生活苦を彼はせっせと援助します。もちろん成金の主人公には、たくさん女性もいますが、結婚はしないままです。あるとき、とうとう彼は、このあこがれの未亡人に求婚する訳ですが、承諾を得て有頂天になります。しかし直後、無理がたたっていたのか彼女は病に倒れ夫のもとえと旅たってしまいます。残された主人公は腑抜けになってしまいますが、最後はやはり株の仕事に没頭し、その中で息を引き取ります。秀吉の生涯と似通っている部分の多い物語であると思っていました。秀吉もほんとうに一生懸命、信長とその奥方に使えたのだと思います。サルといわれようと、ピエロのように笑われようと、それでも気に入られようとなりふりかまわず尽くしたのだと思います。そのひたむきさが彼、秀吉の人気の秘密であると思います。貴人にはとうてい真似のできない誠実なひたむきさが多くの人のこころを打つのではないでしょうか。私は秀吉の生き方にとても大事なことを学べる気がします。

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 ・・・「文禄の役」で豊臣秀吉の軍は、ふぐの毒にあたった為に「ふぐ禁止令」が出されました。その後明治時代に下関の春帆楼でふぐを食した「伊藤博文」は、あまりの美味しさに感激し「解禁令」を出したのだとか・・・おもしろいですね、歴史つながり「ふぐ」編でした。この、魚料理に使う包丁には歴史があるようです。「魚鳥ヲ料理スル者、之ヲ包丁ト言フ」もともと、包丁と言う言葉は料理人を指したんですね。料理人は包丁師と「師」がついたそうです。流儀も出来、「四條家」、「大草家」、「進士家」、「生間家」、などが有名であったとあります。包丁師達は宴席に参上し、右手に包丁、左手に魚箸(まなばし)を持って華麗に調理したそうです。現在ホテルのレストランなどでは、シェフが目の前でヒレ肉などを焼いたりしますが、こういった演出は日本のほうが古そうですよ。「上ハ海物、中ハ河物、下ハ山ノ物」と料理の格付けがあり、主役は魚と鳥であったそうです。これら宴会料理は、日本料理の伝統とはならなかった。その坐は、禅宗のもたらした、精進料理の技法によって、取って変られたのである。古来よりの技法は唯一「刺身」にその姿を見るのみとなりました。ここにも利休のカゲがちらつきます。私の大好きな「刺身」には古い伝統があるんですね。

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 豊臣秀吉の大陸出兵のとき兵糧奉行の岡部次郎右衛門が豆腐技術を持ち帰り、豆腐が“おかべ”とよばれるようになったとか、いやいやもっと古くからあり、豆腐の白さが白壁の色と似ていたから、お壁、「おかべ」になったとか言われるそうですね。当時の豆腐は固く、箸を差しても立つのだとか豆腐にまつわる話しはきりがないようです。始めて文献に登場するのは、15世紀中、室町時代の「下学集」に見られ、精進料理として伝わったそうです。「湯ドーフ」大好きで、一度に5パック食べて回りのヒンシュクをかったこともあります。油揚げもこの時からであり、本来は揚げ物全てを指していたそうですが、いつのまにか豆腐に限っての呼び名となったそうです。ちなみに当地では「アブラゲ」と呼んでいます。世界に誇る健康食ですね。

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 秀吉は外国との貿易には熱心で,倭寇を取りしまるとともに、貿易に従事する日本の商船には朱印状をあたえて保護したそうですが、倭寇とは日本の海賊のことなんでしょうか。倭寇とはどんなものだったのか興味が湧いてきませんか?当時、中国沿岸に暮らす人々にとって、平和とは「平倭」。すなわち倭を平らげることだった。倭とは倭人、つまり日本人だとのことです。

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 醤油の名が 歴史に登場するのは豊臣秀吉の時代に入ってからだそうです。赤桐某とかが醤油を売ろうとした記録が残っているとか。醤油も秀吉の大陸出兵のとき持ち帰ったとの記述も目にしますが、これはどうでしょうか。奈良時代より味噌はあったとの記録があるそうですから、味噌を母体とした醤油は既にあったような気がしますが。この醤油ほど日本の食文化に影響を与えたものはないと思います。フランス料理などなんとソースの多いことか。醤油もソースの一種との捉え方をすれば、一種類で全ての料理に味付けできるソースは世界中にないんじゃないかと思います。これは、料理素材に恵まれているからだとか、西洋はまずい食材をソースで食べさすなど、いろいろ言われるところですね。ただ、このことは日本人の考え方に深く影響を及ぼしてきたのではないかと想像します。考え方が一様で淡白であるとするなら、この醤油文化に負うところ大であると思いますが、飛躍しすぎでしょうか。同じものを食べていると考えまで似てくる、とまことしやかな定説になってきているようです。

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 「能を一生懸命稽古している。腕前のあがったところを、京の町女房たちに見せたいものだ」とねねに書き送っている太閤秀吉。その茶目っ気ぶりと屈託のない明るさは比類がありません。言葉だけでなく、お伽衆大村由己に脚本を書かせ実際に、本人の役を自ら舞ったといいます。まさに型破りであり、これは『太閤能』として伝わっているそうです。おもしろいのは、五曲とも自慢・手柄話であり、褒める役「御手打衆」まで作ったところにあります。ここまで自画自賛を天下に向かい行った指導者は古今東西なかったでありましょう。少々悪いことでも、大声で明るく行えばそれは善とも見えてくるやも知れません。秀吉達人の技であると思います。

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 ご指摘のマップの位置は確かに家臣団が住んでいそうな場所ですね。三階菱も小笠原支族も知りませんでしたが、ようやく輪郭はつかめたようです。只、まだ毛利と小笠原の関係が掴めません。信長は金箔瓦の使用を制限し四城しかないということですが、秀吉は一族はゆうに及ばず、気に入った大名にポンと気前よく使用を許可したそうです。ただし、その使用部位についての制限はあったみたいです。ひょっともして、その家臣であっても秀吉なら使用を許しそうですね。広島城は毛利氏の威信をかけて築かれた城であり、五層五重の大天守は漆黒の壁に金箔を施した屋根瓦があり、その壮大さは大坂城を凌ぐほどであったといいいます。関が原での責任により、毛利輝元、国替えのあと豊臣秀吉子飼いの武将福島正則が入城していますから、福島正則と小笠原支族の関係もあるかも知れません。しかし、家康は金箔瓦に全く興味がなかったといいますから、この線は薄いでしょうね。

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 西洋の城は機能のみでこれに比べて、日本の城は内部に風流の為の庭や茶室を備えた人間性溢れるものでした。時代はずれますが、日本の西洋式城郭と言えば函館五稜郭。稜堡は、縄張りが星形で、その突角部に砲座を置いて各稜堡から発射する十字砲火により敵を殲滅するという機能をもっていたそうです。

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 西洋でも「city wall(市壁)」「castle(城)」とに分けて発達していきましたから、どうでしょう。また中国における「城」は、都市を壁で囲む施設を指すそうですが、日本では、武士とその家族だけが入る防衛拠点としての城でありました。この違いはどこからくるものでしょうか。

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 自然に謙虚な日本の城、自然と対決する西洋の城。という感じを受けます。山城は山の、平城は川の自然を目いっぱい利用している為か無理のないやさしさを感じます。対し、西洋の城は過酷な自然に対し、どこまでも人間の強さを誇示しているように見えます。西洋の建物を「窓」、日本の建物を「縁側(えんがわ)」と例える方もおられるようです。厚い壁を支えるためには小さな窓になります。その必用がない日本の家屋は外へ自由に張り出す縁側が可能になるそうです。これは自然に対する考え方の違いから来るのではないでしょうか。自然との対話を拒否する「洋」、どこまでも自然の中へ溶け込もうとする「和」との違いがあり、それが城の形にも大きな影響を与えているように思います。

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 愛煙家にとっては厳しい社会情勢になりました。・・・実は豊臣秀吉も喫煙していたのではないかと言われています。これは現在の滋賀県水口町は、江戸時代キセルの産地であり、その地の言い伝えによると江州水口のキセル師、権兵衛吉久が秀吉に注文をうけ出来上がったキセルを「水口張り」別称「太閤張り」とのちのち名づけ、その後その地の名産品となったと伝えられてもいるらしいです。この煙草を喫むのに使うキセルもポルトガル人がもたらした物です・・・この時代たばこは異国にあこがれる一つの流行であったそうですね。例えば、ビートルズの音楽に痺れるようなもんです。そういった「南蛮」への憧れみたいな空気が自由闊達な時代の背景にあったのではないでしょうか。先進の気を吸うことは大事なことで、なつメロ大流行の時代は、世の中の停滞を表しているのか、いやいや昔の歌はメロディがよかったからなど、歌談義に話のはずむこの頃であります。

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 ・・・『雑兵物語』に足軽の1日最低量の食料が書かれているそうです。水は1人1升、米は6合、塩は10人に1合、味噌は10人に2合だそうです。米は一度に渡すと、酒にしたり、博打に賭けるので、数日分ずつ支給したそうでで、博打に賭けるものがないと、明日の合戦で襲う村の戦利品を賭けたりした。合戦に乱暴狼藉がつきまとったのには博打にも一因があると。負けだすと武具をかけだす者もいたそうです。更にはかけるものがなくなり、民家や戦場で敵の死体から物を剥ぎ取るなどして、博打の元手を調達することが少なからずあったようです・・・博打はある意味戦国武将にとって、「大きな博打」は皆打っていた訳で、兵にしても、どの大将のもとで働くかは「博打」ですね。秀吉も、いくつかの「大博打」の後、天下取りが出来たわけです。こういった博打と先ほどの武具を賭けたりの博打は区分しなければいけないかもしれませんが。博打は武士社会において、有る意味奨励されていたと聞いたことがあります。どうしてなんでしょう。

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