太閤記に関する覚書 12 Index / Top
221
 秀吉にとっての関が原は賤ヶ岳の戦いであり、天王山とは一味違ったものです。この戦いは秀吉にとって大変嬉しかったらしく、すごく後でも、忘れたように功臣に加増が行なわれたようです。また、情報戦でもあり、勝家の高飛車な協力依頼の口上では秀吉の根まわしにはとうてい及ばぬところがあったようです。この点卑賤の出と言われる秀吉には、上下を問わず情報が集まる訳ですから有利この上ないことであったと思います。また、この戦いを「天下取り」と秀吉が位置ずけていた証拠には、中川瀬兵衛との逸話がありますね。戦後陣中を見回る秀吉、「瀬兵衛、苦労!(大義!だったか)」と一言、これに怒った、瀬兵衛が「推参也、はや天下取りの顔をするか!」秀吉そ知らぬ顔で通りすぎたとありませんでしたか。怒ったあとでも、憎めない秀吉の後ろ姿であったと思います。

222
 勝家の甥だったと思いますが盛政の最後はとても印象的ですね。賤ヶ岳で破れた盛政は府中の山中で農民に捕らえられたそうです。秀吉の大国進呈というとほうもない温情を断り、京を引き回し、秀吉の威光を天下に示すがよい、と返答したそうです。この辺の二人の心理はどうだったんでしょう。「車にて京中を引き回し折り、秀吉小袖を与えたもうが、盛政気に入らずとの由。秀吉、急ぎ赤の大紋小袖二着与えたもう也。」秀吉の盛政に対する情も、盛政の武辺を愛したものであり、例え敵対したものでも互いに認め合っている姿は感動します。秀吉、盛政を捕縛した農民を秀吉ことごとく首を刎ねたところに秀吉の気持ちが表れているのでしょう。農民に対する気持ちの変化か。

223
 近江を制するものは京を制す、とまで言われていたそうです。この羨望の土地を秀吉が手放す訳がないと、勝家キズクべきでした。清洲会議で勝豊移封と決まり喜んだ勝家に同情すべきでしょうか。佐久間盛政と柴田勝豊は従兄弟ではありましたが、仲が悪かったんですね。また勝家との関係もよくなかったと言います。情報を得意とする秀吉がこれを見逃すはずはありません。勝豊と勝家の仲に亀裂が入った原因はいろいろ説もあるようですが、やはり勝家に実子が生まれてからのように思います。ですから勝家にとっては長浜へ勝豊をやることは、左遷の意味があったように思えます。しかし、そういう訳で、勝豊にしてみれば勝家とたもとを別つ栄転と感じたのではないでしょうか。秀吉が長浜を囲んだとき、あっさり投降した訳は、とおから勝豊のこころが勝家から離反していたからであると思われます。また、この頃、病であったとも聞きますから、戦意も薄かったのでしょう。しかし、秀吉の見舞いに涙して、あの世で秀吉の朗報を待ちましょうと言ったとのことですから、ほんとうに勝家を憎んでいたように思います。勝家滅亡の報を聞くことなく旅たったと申します。戦国の世に翻弄された一人の武将の最後でありました。

224
 信長の雄叫び、はおもしろいですね。どんなふうだったんでしょう。秀吉も体のわりに大声だったそうですが、信長ゆずりかも知れません。これを見ますと、信長も危うかったのですね。しかし戦の先頭きって駈ける姿はやはり信長が似合います。そう言えば桶狭間の戦いでも映画などではそうでした。雨の中、今川めがけて突き降りる様はハイライトでありました。しかし、最近ではそうではない。今川義元は桶狭間という山に陣取っており、そこへ駆け上ったと言う説もあるんだそうです。桶狭間という戦国一番とも言える有名な戦いの景色といいますか、イメージが大幅に変ることになるのかも知れません。また決して少数で多勢を破ったというわけでもなく、今川の兵の分散により、無理のある戦でもなかったようです。しかし、これによって信長の評価が変るものでなく、周到な計画もあったようですから、逆に高まるのかもと思います。

225
 高速道路で京、大阪方面へ行く時はこの賤ヶ岳のパーキングで休憩します。確か余呉の名前もあります。山を越えるとまず目に入る琵琶湖はきれいです。残念ながら、余呉湖はまだ見たことがありません。このときの秀吉の大返しは中国大返しと区別して、「美濃大返し」と言われるそうですが、この戦を勝利させることになった最大の原因に数えられています。この兵站を担ったのは石田三成であるといわれていますが「七本槍」の華々しい戦績の陰に隠れ評価も薄く感じます。しかし、この時の大返しは大変なスピードであり、武具などは船で送り、用意された松明のあかりのなか、炊き出し用意されたにぎりめしをほうばりながらの強行軍であったそうです。松明の明かりが延々と伸びてくる光景はすごかったでしょう。ただ、岐阜へ向かう秀吉軍がこの時の雨で大垣で足止めになっていたことが幸いしてのことであったと思いますし、またこの年越前が大雪であったことなど、秀吉に文字通り天も味方していたように思えてなりません。

226
 「金森長近 」越前大野3万石の領主から、賤ヶ岳の合戦には秀吉に従い飛騨国高山に3万8700石で封ぜられた。千利休や古田織部に茶道を学んだ茶人であり、長近によって飛騨文化は大きく花開いたそうです。「佐々成政 」九州征伐に従軍。肥後国主となる。 天正16年、豊臣秀吉に切腹を命じられ尼崎で切腹とありますが、何故なのか今後調べていきます。成政の秀吉を憎むことは異常なくらいに思いました。だから?「滝川一益」勝家軍に属し秀吉に降伏する。小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍に属し蟹江城を攻略するが家康、信雄に奪回される。秀吉の遺留もあったが越前大野でひっそり死去されたと伝えられる。

227
 『信長公記』についての読みはどちらでもよいそうですよ。≪のぶながこうき 信長公記 一五巻。「しんちょうこうき」とも訓む。『安土記』ともいう。織田家の佑筆、太田牛一の慶長五年(1600)ころの著作。まず巻首に、織田信長の入洛以前のことを述べ、入洛の年・永禄十一年(1568)から天正十年(1582)に本能寺の変での最期にいたる間の信長の事歴を巻一から年月を追つて記している。数々の合戦、越前・伊勢長島・加賀の一揆、そのほか信長の政治活動を詳細に述べたものである。記事の一々について必ずしも信憑はできないものもあるが、戦国期の政治史にとつては『川角太閤記』とともに参考とする点の多いものである。≫『国史文献解説』

228
 秀吉の桶狭間活躍の記録がない以上想像ですが、天文13年 18才(秀吉年齢) 信長に仕える。〜この間が空白期〜永禄3年、24才、桶狭間の戦い。永禄4年、25才、ねねと結婚。永禄9年、30才、墨俣築城。桶狭間の翌年結婚ということは、想像を逞しくすれば、やはり何か武功があり、生活のメドがたったからではないでしょうか。以前ねねとは野合であったとかなかったとか、いずれにしろこの結婚の4年後に「木下籐吉郎秀吉」の署名入り文章が歴史に登場するそうです。また、末尾に「秀吉」とあるところからも、ここから急速な出世が始まるように思います。只、桶狭間で相当な武功があれば、秀吉のことです、大げさに記録に残そうとしたでしょうからね。首級を上げるようなものではなかったのかも知れませんね。(桶狭間まで雨に濡れながら走ったのでしょうか)目に浮かぶようです。しかし、想像ですが、先ほど石田三成の兵站の才を書いたように思います。繰り返しになりますが、武功というものではないところで、その才を生かしていたように思います。ですから、三成がそれを受け継いだような気がしますがどうでしょうか。

229
 賤ヶ岳の戦いは佐久間の奮戦で勝敗はまだまだ決着はつかないようでありましたが、ここに前田の戦線離脱という思いがけない行動により、一気に勝敗を決するところとなったようです。これは「裏くずれ」とかいうそうです。やはり、ここは不可解なところです。秀吉、ねねとの知遇ありとはいえ、利家は人質を勝家に出していますし、どちらにつくか、その去従や五分五分であるように思います。本能寺の変の時、勝家が上洛の要請を、利家はその余裕がないと断っているそうです。これも不思議ですね。信長の仇討ちをやろうと勝家が言っているのに断るとは・・・。もともと、府中三人衆は勝家の監視としての役目で信長より派遣されたものであり、信長亡き今、勝家に従う義務などないわけですから、そのことによって、利家もまた戦国の一武将としてのいろいろな迷い、欲望からの行動と見れば、何となく解るような気もいたします。槍の又左もまた「さりとてはのもの」だったのでしょうか。

230
 成政は賤ヶ岳の戦いでは、対上杉で越中にあり参加できなかった。越中一国は安堵されたが、信雄、家康 小牧・長久手に呼応して、前田を攻めるも、信雄単独で秀吉と和睦。家康の奮起を促す為、妨害されることのない厳冬のアルプス越えを決行することになる。これが、さらさら越えである。この名前は「佐々」が訛ったものと言われています。「佐々佐々越え」でしょうか。この時家康多いにその労をねぎらったそうですが、遂に家康を動かすことはできず、失意の帰国となります。現在の黒部立山アルペンルートであり、その厳しさは訪れた方なら理解できると思われます。佐々成政の強靭な精神力に感嘆します。日本登山史にも残る出来事だと思います。

231
 前田利家は若い頃、かぶき者で、なかなかの暴れん坊であったとか。一度信長の怒りにふれ織田家を出ているようです。その帰参のときの戦いで首を一つ取って信長の前へ、信長のそ知らぬ顔を見て、その首を泥田にほうり、今度は二つ首を取ってきたといいます。こういった時代ですから「やさしい人柄」といったものが、この時代ではどのようなものであったか。しかし、現在と違い常に明日のわからない身であったでしょうから、常に神経は張り詰めていたでしょう。そういった中での男女の仲はとても大事なものであったと思います。

232
 勝家には子があったとか、いや養子であるとか言われているようですが、今だはっきりしたことは解りません。お市の方は正室と言われていますね。勝家の生年が解りませんが、結婚時そうとうな年であったようです。北の庄での二人の最後は感動しますが、かわいそうな気がします。

233
 秀吉は検地や刀狩りなど、おおよそ農民に過酷な政策を取ったように見えますが、農民から決して憎まれていないように思います。これはどうしてでしょうか。秀吉がこれほど慕われている、最大の理由は間違いなく自分たちと同じ仲間から、頂上へ上り詰めたことへの憧れと同朋意識でしょう。権力を肥大させて行くにつけて、秀吉の方は農民との断絶を深めていくように思うのですが。身分が固定され、長く続いた徳川時代に、辛い労働の中、太閤神話とでも言うべき秀吉への話がどんどん膨らんでいったのかも知れません。大多数を占めた庶民に生きる希望を与えたことが、太閤秀吉の一番の功績であり、それは、現代でも続いているように思います。

234
 柴田合戦の一つである亀山城攻めは、秀吉自ら指揮を執ったにもかかわらず大変苦戦であったそうです。このとき細川忠興の家来、米田是政がたいそうな働きをしたそうです。この様子を山上より観ていた秀吉が、黄絹に日の丸の紋をつけた武士の抜群の働きを目にし、不審に思って誰であるか確認の使い番を走らせたそうです。指物に敵の鉄砲があたり破られた跡で、遠くから日の丸に見えたとの報告にさすがの秀吉も大いに感じいったそうです。戦後、是政は秀吉より特別に指物に「日の丸」の紋を許可されたといいます。さて、よく日清、日露など映画など見ていますと、ボロボロの日章旗を誇らしげに掲げて行進する軍の姿を見ますが、この米田是政の旗指物が原点ではないかなどと想像してしまいますが、どうでしょう。

235
 川中島の戦いで武田信玄に勝負を挑み斬りつける上杉謙信の場面は、もちろん映画にもなり、確か石原裕次郎がその役だったと記憶があります。しかし、郷土史を研究されている方の発見した古文書がその様相を変え、斬りつけたのは実は謙信入道の家臣であったそうです。このように、数ある名場面が後の世に否定されることも、これから随分と出てくるかも知れません。私的には、そのままであって欲しいなどと思う場面は数限りなくあります。また、遺跡発掘にありましたように、学術と言う名の権威がいかに不安定なものであるかも最近の出来事であったと思います。それによって、その土地のイメージや経済的損失など、はためにも気の毒であったことを思い出しています。歴史はその時々のいろんな要因によって、変えられて行くことが多いように思いますが、またその時々の多くの大衆による夢を代現して形づくられていくものであるとも思います。

236
 大胆な仮説を立てられておる方が。勝家とお市の方の辞世がありましたね。さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそうほととぎすかな(お市の方)夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井に上げよ山ほととぎす(柴田勝家)この勝家の辞世の「はかなき跡」を「はかなき後」とすると、夏の夜の夢路はかなき後の名を雲井に上げよ山ほととぎす、となります。はかなき後の名・・・ここから推理が出発しています。

237 717
 疑問に思った点が出て来ました。それは柴田勝家のことです。(1)信長暗殺の片棒を担いだ勝家を信長が許していること。あの信長の性格を思い出してみてください。(2)勝家の生年が不詳であること。天下を賭けての勝負をした武将の生年ですよ。しかも、織田家筆頭家老。(3)秀吉が勝家との戦に自信を持って臨んでいること。大返しといい、またカメ割柴田とまで言われる勝家に何の臆するところがなかった。(4)お市が相当年が離れているにも関わらず勝家に嫁したこと。勝家はすごい形相でもあったそうですが・・・。(5)側室が極端に少ないこと。(6)賤ヶ岳での前田利家のあまりに不審な裏切り。律儀の前田にしては、まして、槍の又左が一戦もせず。まだあるでしょうか。いろいろな解釈ができるとは思いますが。

(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)