太閤記に関する覚書 5 Index / Top
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 利休辞世の句、「人生70、力囲希咄(りきいきとつ)、吾が這(こ)の宝剣、祖仏共に殺す。提(ひつさ)ぐる我が得具足(えぐそく)の一つ太刀、今この時ぞ天に抛(なげう)つ」力囲希咄の意?祖仏共に殺す・・・とは?天に抛(なげう)つとは怒りなのか、それとも捨てる意味なのか?やはり怒っているのでしょうかね?何となく武士の生き様にあいそがつきたと叫んでいるような感じも・・・

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 大徳寺山門金毛閣木像事件は有名ですから、あえて書きませんが、いろいろ調べて見ると、以前どなたかからご指摘通り、秀吉の弟、秀長に辿りつくようですね。秀吉=秀長=利休、の構図が、秀長の死によって、秀吉=三成×利休、となった模様です。利休は豪商の出と申しますから、朝鮮などから入る焼き物など目にしたり、堺の商人の貿易の手伝いをしていたかも知れません。朝鮮出兵に対し秀吉との間に意見の相違があったと想像しても不思議ではありません。この時の木像はひきずり出され捨てられた、とかいやいや磔にされたとか、いろいろ説もあるようです。この山門の二階は非公開とかで、真偽の程はどうなんでしょう。秀吉は大変悲しんだそうです。やむにやまれぬ政治的措置であったろうと思われます。

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 「LAST・SAMURAI」外国から見た「サムライ」はどんな風に描かれるのか興味があります。最近知ったことなんですが、戦闘のとき太刀はあまり使用しなかったなどと。槍、なぎなたなどを(鉄砲も)使用し、太刀は首を・・ときとか、自刃するときに使用したそうです。ハナシに出ました「長短槍試合」はとても重要なことだったんですね。信玄は「魚鱗(ぎょりん)の陣」、家康は「鶴翼(かくよく)の陣」で三方ヶ原で戦ったと読みました。以前見た「敦煌」という映画でも、こういった戦いのシーンがあり、成る程と感心したことがあります。他にもいろいろ戦いの姿「・・・の陣」があるんでしょう。秀吉の得意とする戦闘形は。

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 外国から見た日本、フロイスの話しなんかよく出てきましたが、彼らの評は新鮮な感じがするのはどうしてでしょう。外人横綱は、日本人より日本人らしいなどとよく言われてきましたが不思議なことですね。日本には、貴族には貴族の、武士には武士の礼法があったそうですが、その形を真似れば、誰でも日本人の姿に見えるのかも知れませんね。茶道といい、まさに「形(型)から入る文化」なんでしょうか。

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 利休はこんな句を残しています。「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」「・・・雲間の月」のように「わび」の境地をとも見えますが、何となく新しいものを世間の人達より、自分は先に知っている、とも感じます。また、周りにキリシタン大名、高山右近などは高弟であったは有名ですね。そこで、キリシタン禁令に傾く秀吉と衝突ならば、大変説得力があります。実は子供の頃より、大気な秀吉が、たかだか木像ぐらいで、騒ぎ立てるのに違和感を感じておりました。この話は大阪攻めの折りの「国家安康」釣鐘騒ぎと何処か似ていると感じています。本質を隠す為の口実くらいであったかと。

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 (今この時ぞ天に抛(なげう)つ)この「天」に引っかかります。これは、わが身を天、すなわちキリストの説くものをイメージしていたのではないでしょうか。と言うのも禅宗などは、非常に哲学的であり、死後の世界などは説いていないのではないですか。この時代有識者であった利休が、ゼウスの神の国を新鮮に捉えたとしても不思議ではありません。(一つ太刀)を天に抛(なげう)つ、と捉えるならば、また違ったものになります。これだと、太刀に象徴される武士の世界の不条理をほうり投げたいとの意味かも知れません。以上まだまだ、推測する材料はいっぱいありそうです。(千利休は町人(町衆)また禅の高僧だったんではないですか。キリスト教を信奉するはずがありませんよ。それより、武士でもない?利休が「切腹」を許されたのはどうしてでしょう。町人なら、打ち首がこの時代なんでしょうに。山門の利休の木像は「磔」になったそうですが。)

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 切腹を武士がしたのは「太平記」の時代、切腹の第1号は平安時代の盗っ人、袴垂保輔(はかまだれやすすけ)とか。切腹が儀式化したのは、江戸太平の世の中からです。切腹する腹には魂が宿って・・・切腹には一文字腹、十文字腹、三文字腹という切り方が。切腹でハラワタつかみ出すのは無念腹とか。なんと痛そうなオハナシですが、盗賊が名誉ある第1号なら、当時まだ武士の礼法とこだわらなかったのかも。

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 ・・・大徳寺の山門に上げられた利休像を磔に架け、それで事件を幕引きしようとした秀吉の意に反して、利休の影響力の大きさを怖れた三成らは利休に自害を迫った・・・という一文に出会いました。秀吉らしいやり方だったんですが、この時点で、彼を取り巻く官吏衆の力はとても大きくなっていたんでしょうか。調べて見ますと盗賊、「袴垂保輔」は捕吏に追い詰められたところ、観念して腹を切ったそうですから、名誉ある切腹第1号に上げてよいでしょうか疑問が湧きます。この方は安部清明の時代を同じくした盗賊だそうで、親しみが湧いてもっと知りたいと思いました。石川五右衛門や鼠小僧次郎吉なんてよく聞きますが、「袴垂保輔」はあまり聞きませんね。

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 利休居士が武士であったかどうか、よく解りません。ただ、この時代は農民から武士になることも可能でありましたから、徳川の世の士農工商などという、身分制度はまだなかったでしょうね。利休は豪商の出と申しますが、徳川末期には豪商が士分を金で買ったそうですから、帯刀が許されていたのかも知れません。秀吉は、利休に心酔していたようですから、やはり打ち首などもっての外と思ったんでしょうね。ある意味、竜虎並び立たずでありましょうか。山門の利休の木像は「磔」で終われば・・・秀吉の深い愛情とユーモア?

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 石川五右衛門(いしかわごえもん)といえば「五右衛門風呂」を思いだします。この風呂で育ったといってもよいくらい懐かしいものがあります。今出来のと違い温まりますよ。でもこれに入浴するには、底板という丸い木の板を沈めながら入らなければいけないので、まだ小さかった頃はとても苦労しました。これを知らないと「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次・喜多が下駄を履いてお風呂に入った訳も解らないことになります。戦中、戦後よくドラム缶の風呂に入っていたと聞いたことがありますが、やはり木の板を沈めながら入ったんでしょうか。さて、秀吉のドラマには必ずといって良いほど登場する、五右衛門でありますが、さすが切腹などでなく、京都の七条河原で釜ゆでの刑に処せられるという極刑を受けたそうです。この時、釜の中に立ち、自分の子供を守ろうと頭に乗せたそうですが、親のこころを持っている五右衛門でした。この五右衛門風呂に入るときは、この事を思い出し湯温が上がって釜茹でにならないか子供ごころに心配していた頃を懐かしんでいます。秀吉と五右衛門との関係は?またこれからが楽しみです。

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 五右衛門は伏見城に忍び入り、秀吉の枕元にあった名器・千鳥の香炉を盗もうとして捕らえられたそうです。この香炉何が名器なのかよく解りませんが、3本の足のうち1本が短い? それでちょっとした震動でコトコト(どんな音でしょうか)なったとか。これに似た話では左甚五郎が作ったと言われている、知恩院の鶯張り廊下が有名ですね。また城の堀には水鳥を飼って夜怪しい者がくれば鳴いて知らせる意味があったなど、なかなか用心しています。・・・秀吉にうとんじられていた関白秀次が自分を守るために、どうせ殺されるなら先手を打てと、この五右衛門に秀吉殺害を依頼したとも。五右衛門は秀吉の寝所に入り、まさに首を斬ろうとした時、置いてあった千鳥の香炉が鳴いたので、取り押さえられた・・・などは講談のネタにもなって長く人気を博すことになります。

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 天守のない城下町はどれほどあるのでしょう。石垣だけが残る跡地は何か寂しさが漂います。以前訪れた安土などもそうでしょう。「天守は一城の飾り」 などと言われるそうですが、確かに天守を訪れてみると、これは居住には向いていないと解ります。篭城を想定していることは、急な階段などで想像できます。小京都と呼ばれる若狭には、三(五)重の塔などが多く、観光によい町です。こういう塔は中が木組みだけであると聞いたとき驚きました。ようするに、外観だけなんですね。宗教的に何か意味があるんでしょう。保科正之が「軍用に益なく、ただ観望に備えるだけの天守再建はこの際無用」と明暦大火後江戸城から天守はなくなったそうです。

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 滋賀県大津市には「穴太(あのう)衆」と呼ばれる石垣造りで有名な石工集団があるそうです。石垣のメンテナンスに活躍しているみたいです。楼閣や回廊が喪失すると、雨露などが染み込み石垣が緩むんだそうです。放置しておくと自然崩壊するとか。あんな丈夫そうに見える石垣がとちょっと驚きます。秀吉の自慢であった大阪城のまわりで、絵を書いている方がいました。覗き込むと、きれいな浮世絵美人画です。風景と全く関係ない絵なので、お聞きすると、「この場所で書かないと感じがでない」と笑いながらのお返事でした。

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 天守閣というのは「天守」又は「天守丸」とか言うそうです。それに従いますと、「天守丸」・・・城郭の中心建造物ー天守ーが存在する曲輪をいう。「本丸」・・・複数の郭(曲輪)により構成される城郭全体の中心になる曲輪をいう。二の丸、三の丸に対する語。

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 近くに仏舎利塔があります。開眼の時インドからたくさんの僧がお見えでした。中には仏舎利(仏陀のお骨?)が入れられたそうです。この建物は白いドームのような形をしておりますが、これが形を変えて五重塔になったそうです。結局インド→中国→日本と建築様式が変化してきたのでしょうか。世界が狭くなりその原点を見れる現在の世は、過去を考える意味でとても恵まれていると思いますが、だからと言って、その原点ばかりに戻る必用はないとも思えてきます。名前なんと言いますか仏舎利塔の上に立つ避雷針のようなものだけが、形を変えず五重塔の上にある姿に歴史のおもしろさを感じます。

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 先ほど広島城のご紹介がありましたが、天守閣の位置は「真中」にとばかり思っていましたので、角にあるものもあると知り驚きました。大天守ー小天守と連結式天守で、天守閣は一つという観念もここにジ・エンドとなり、勉強はするものと笑っております。残っておれば、秀吉の大阪城を凌ぐものであったそうです。最後の字幕に「一発の爆弾で消滅した」の言葉がこころに深く突き刺さりました。お昼エノラ・ゲイの展示に対するニュースが流れていました。あまりの偶然に驚いているところです。現在は復元されているのでしょうか。

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 天守は一般には安土城をもって創始されたと言われています。しかし安土築城(天正7年)をさかのぼる事、半世紀、永正17年2月17日(1520年)「天守」の言葉が出てくるそうです(細川両家記)「群書類従」によれば、「然るに伊丹城の中・・・我等二人は・・・家々に火をかけ、天守にて腹切りぬ」、とあり【伊丹城】で天守の存在があったことになります。ところが、この「細川両家記」の信憑性が疑われてもいるそうで、「信長公記」によるところの、【二条城】が天守の記録として一番古いと言われているそうです。天正時代に「殿主」→「殿守」→「天守」と変化していったそうですよ。

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 (本来どのような目的だったのでしょうか)安土城天守の地階に多宝塔が見つかっているとか、鬼門に梵字を記した石を積んだり、また人柱伝説と違い実際人形が発見されていることなどから、天守閣建設の起源を仏教に求める説が有力ではないかと思われます。しかし、岡山城天守には「天御神・たけみかずちのみこと・ふつぬしのみこと」が祀られた神棚、小倉城天守には「不動尊・摩利支天・御札」のある棚があり、高松城には「諸神30体」が安置祈祷されていたそうですから、神仏習合による天守の存在となるんでしょうか。「城郭」の原意は外敵から民衆を守る護国思想にあり、また仏教・道教・儒教・神道の理想的世界の「守護神」としての具現であったと言います。この「天道思想」が戦国時代の一般的な思想になっていたそうです。「守護神」を祀る為の天守という捉え方ではどうでしょうか。

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 「古城物語」は、城郭は、すべて、多くの櫓を持っている。で始まります。この櫓は築城にあたり、ある方角だけ建てられないことが多かったそうです。その方角とは、「良(うしとら)の方」いわゆる「鬼門」だそうです。「万鬼のアツマルトコロ死霊に充ツ」とされる方角を指します。この鬼門に人柱伝説が多く発生しました。私の地方では家の鬼門とされるところに「南天」を植えます。「難を転じる」をもじったものと聞いたときはガッカリしましたが、その後、そういった場所は、じめじめしたところが多く、南天の根は水分を多く含むことができると聞いて成る程と感心したことがあります。人柱伝説はあちこちにあるようです。秀吉の大阪城にもあるのではないですか。生き埋めになったというのは、竜神伝説で若い娘が生贄になったようなものと似ていますが、実際は城普請のときの犠牲者を慰霊する為に伝説が作られたという説があるようです。

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 鯱はインドの想像上の「マカラ」という竜のような動物が起源らしい。安土城が最初であったと言われています。やはり有名なのは名古屋城ではないかと思います。その、名古屋城も戦災にあい、現在の城は昭和34年に再興されています。「金の鯱(しゃちほこ)」にはオス、メスがあって、雄(北側)雌(南側)に配置され、ウロコの数はメスのほうが14枚多いそうです。

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