太閤記に関する覚書 3 Index / Top
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 秀吉は農民の出から最高の出世をしたのに、ひとたび権力を握ると有名な「刀狩り」をしたそうですが、これ、なんか矛盾を感じませんか。秀吉の「女狩り」と違い「刀狩り」は自分が出来た可能性を多くの日本人から閉ざすものですからね。自分はいいけどほかはダメみたいな論理に思いませんか。「信長公記」越前に一揆勢が蜂起。越前の桂田(かつらだ)長俊、栄耀栄華に誇り・・・諸将反乱・・これを契機として、一揆勢が蜂起し、国中に要害を築き・・以後越前一国は一揆勢の支配する国となった・・信長は、羽柴秀吉を・・敦賀へ派遣した。刀狩りのヒントがここにあるかも知れません。

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 一揆とは揆(法則)を一にすること。(1)道を同じくすること(2)こころを一つにすること(3)団結すること、を指し、思想的な一致、またはそれに伴う行動を一揆と呼びますが、実態は武装蜂起の呼称である。一向一揆が真宗本願寺派の門徒に限っているのは、本願寺法主がこれを指導し、本願寺教団と共存したから・・・蓮如に始まり教如に終わる・・(本願寺と一向一揆)まだ、読み始めたばかりですが、蓮如と言えば吉崎御坊ですね。もちろん何度も行ったことがあります。この方は、秀吉に負けず女性の方とご縁があったそうで、その系図を見て感心?した記憶があります。北潟湖を背景に、そんな歴史があったのかと思いだしています。

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 秀吉は出世の階段を上る内に天下万民という意識を持った最初の日本人であったとは言い過ぎでしょうか。一向一揆、一説にはその犠牲者100万とも言われているそうです。もちろん秀吉も命令で加担しました。しかし、目も当てられぬ虐さつ続く中にあって、秀吉は首謀者のみを処刑し、後の者は助けたとあります。この短い一文のなかに、農民の苦しみを自分のものとできた秀吉を窺い知ることができないでしょうか。このまま刀を持たせていては、また農民に難儀が降りかかり、多くの善男善女が苦しみしぬことになる。方広寺大仏造営の釘・かすがいに使用するためと言う名目なら喜んで差し出すであろう、との秀吉の御ふれには、とても猿知恵とは言いがたい温かいものを感じます。

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 (進めば浄土、退却は地獄)と一揆のリーダー達は言ったそうな。影で泣いてる女が一人。どうしたのかと聞いて見ると、(逃げる足は地獄へ行く足、坊様はまちがいなく無間地獄へおちておしまいになります。それがおいたわしくて泣いているのでございますよ」(「日本史にみる・女の愛と生き方」)一向宗との戦いは武士1人に対し農民10人が死んだとまでいわれています。それでも10年余にわたる戦いとなったのは、一向宗徒の、命を惜しまぬ戦いにあったそうです。武士と農民が命を掛けて守ろうとしたものの違いはなんだったんでしょうね。

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 象といえば、慶長2(1597)年 羽柴秀吉、方広寺大仏殿に赴いた後に参内しルソン国から贈られた黒象を後陽成天皇に謁見とあります。日本に初めて象がお目見えしたのは鎌倉時代だそうですが、詳しい資料としては、徳川吉宗の時代、象が天皇に対面するため「広南従四位白象」という位をもらったそうで、これはちょっとした大名よりも位が高かったそうです。天皇に対面するのに動物でも「位」が必用など笑えます。秀吉が位にこだわった訳はこんなところにあるんですね。まさか、象さんに負ける訳にも。

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 何せ秀吉の歴史は徳川300年を経てフィルターがかかっている訳ですよね。新井白石などの学者を動員したことは考えられますね。いつの時代も権威を傘に歴史は作られて行くものかと。その点を考えますと、権威に反発する庶民がいろいろな手を使って太閤の時代を懐かしみ囃し立てていったように思います。徳川の時代が終わって明治の時代、秀吉の評価はどのように変っていったんでしょうか。

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 (かなり度胸がいるはずです)家康がこの戦のあと、秀吉の招きに中々応じなかったのは、家康の深謀遠慮を表すという方も多いですが、この時の戦で、大変臆病になったとも考えられます。大政所との交換で上京するとき、彼女の宿所の周りに柴を積んでの用心さは、かえって家康のこころ内を端的に物語っているように思います。(家康、先鋒・榊原隊と共に長久手で羽柴秀次軍と対戦。秀次隊敗走、堀秀政隊退却、池田恒興、森長可が討死)この戦に秀吉は秀次を大将にして送り出したんでしたね。これは池田にとって大変の重荷になったように記憶しています。戦経験のない?秀次を救援しなくてはとの・・・だったような。秀吉はのこのこ帰ってきた秀次をたいそう叱ったそうですが、このことが後の秀次騒動の遠因になったような気がいたします。

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 ・・・調子に乗った一九は“膝栗毛”の2年後に、秀吉をヘビ、信長をナメクジ、蜂須賀小六を河童にたとえた『化物太平記』を書き上げるが、これは“武士階級を侮辱し過ぎ”と幕府を激怒させ、50日間の手鎖(手錠)生活、出版元は罰金、作品絶版という刑をくらった・・・(引用終わり)という一文に出あいました。言うまでもなく一九とは、弥次さん喜多さんでおなじみ「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎一九です。十返舎とは香道からつけた名前とのことですが何のことかはよく解りません。さて上記の文に寄りますと当時の支配層に都合の悪い風刺であったのでしょう。ヘビ?ナメクジ?どんな内容だったんでしょうね。こういったところからも武士階級が力を失って来ていると解るんですよ。その時々の庶民の娯楽を調べると歴史の真相に近づけるかも知れません。

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 備前のお方は、大阪城の白牡丹と言われたそうですね。ベルサイユのバラに対比される豪姫。子のない藤吉郎の養女ですね。今読んでいる「北陸の歴史 キラめく女たち」に紹介されています。さて話があっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、もしここ覗かれる方には、大変でしょうが、まだ始まったばかり。その内何か方向が見えてくるのではないかと思っていますので、ご辛抱ください。「豪」と言えば前田利家の子とか、宇喜多秀家の妻とか、瞬時に解るんでしょうが、私には未だ新鮮な名前なんですよ。この姫は大変な浪費家日本一の女性であったようです。秀吉に気に入られ、同衾抜きの唯一の女性なんて紹介され、秀吉も赤い顔でしょう。関が原後、宇喜多秀家、八丈島流罪となり、実家前田家に戻った豪がせっせと島へ、米、味噌はじめ生活用品を送り続けたというハナシですが、徳川の目あるなか、気骨ある女性であったと思いました。又、この事から押して「武士の情け」のようなものが既にあったのでしょうか。

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 秀吉は明神号、家康は権現号。これはそれぞれ吉田、天海の成せるところではないでしょうか。秀吉は朝廷より、正一位豊国大明神の尊号が贈られましたが、これは吉田神道の指南ではありませんか? この考え方は仏教をも、その中に抱有してしまいますから都合よかったのかも知れません。この時代は何と言っても、宗教改革、大航海の時代であり、特に中国は明に取って変る清が勃興しようとする大激動の時代が始まらんとするおり、日ノ本に「太閤」神となって出現するは正に時代にマッチしたものであったと思います。

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 ・・・大坂城が落城し、徳川の天下になりますと、家康は豊臣氏に関係のあるものはすべて消し去ろうとしました。困ったのは長浜の町民です。長浜の生みの親である秀吉公のお祭りができなくなるだけでなく、うっかりするとご神体もご神号も取り上げられ、焼かれてしまうかもわかりません。あわてた町民の代表は、ご神体とご神号を民家の奥深くかくして、法要をつとめていました・・・このようなことは、いたるところで行われたと想像できます。えびす祭(講)なども形を変えて秀吉を偲ぶものではなかったでしょうか。秀吉のみでなく秀頼8才の時書かれた神号を飾ったとの記述によっても、いかに大衆から愛されたかが解るような気がいたします。明治維新がすんなりと、大衆に受け入れられたのも、時の政府がこの太閤人気を敏感に取り入れたからであると勝手に想像をめぐらしています。

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 秀吉と言えば黄金の茶室が有名ですね。いつぞや復元されたものを見たことがあります。部屋中、お道具も金一色で、眩いばかりでありました。これはワビ、サビを重視される茶道の方から見るとどのような感想をお持ちか興味あるところです。浄土真宗の法事などでは「仏前を荘厳し・・・」のお経で始まると思います。寺院なども柱、長押全て金箔が施されていることはご存知だと思います。もちろん大事なものはその教えでありますが、きれいに荘厳されているものは、粗末にはしないであろうということですね。秀吉天運強きところは直轄金山より金銀がザクザクと取れたところではないでしょうか。天正大判など今では1枚、ン百万で取引されるとか。上記寺院のように、秀吉は彼流のやり方で茶の世界をとても大事にしたと考えられます。この秀吉の時代こそほんとうに「黄金の国ジパング」であったと思いますがどうでしょう。マルコポーロはわらぶき屋根をカン違い?しかし宣教師達が見たものは、燦然と輝く黄金瓦の天守閣だったんですから。

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 ・・・家康が秀吉のご機嫌伺いに大坂城を訪れた時のこと、秀吉が「攝津一国の武士を集めて、この城に立て篭もれば日本中の軍勢を相手にしても落せない」と言ったところ、家康は「殿下ならばどうでしょうか」と言った。すると秀吉は「わしが攻めれば話しは別だ。一度和睦して、もう一度攻めて落すだろう」と答えたという・・・

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 ・・・私たちの日常生活の中で、「あみだくじ」、「あみだかぶり」など、生活にとけこんでいる言葉がありますが、これは阿弥陀仏の光背の形から生まれています。また本阿弥、世阿弥、黙阿弥、筑阿弥(秀吉の養父)など、尊敬を込めた呼び名は阿弥陀信仰に深いかかわりあいがあります・・・

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 豊臣秀吉の生誕説には(1)天文5年(1536)申歳元旦尾張中村で生まれた、という太閤伝説が通説である。中村には豊国神社があり、「太閤薮」が生誕地とされ、公園の側、常泉寺に「産湯の井戸」がある。(2)天文5年6月15日という説がある(朝日物語)(3)最近では、天文6年(1537)酉歳2月6日が有力(関白任官記)以上、不世出の英雄、秀吉の生誕は今でも謎とされているそうです。ここで、気が付いたんですが伝説とされる「申歳(さる)」に引っかかりました。もしかして、秀吉はいい男だったかも知れません。あまりに偉大な業績に後のやっかみが彼をして「猿」と呼ばしめたとか。最大幅の出世をした秀吉がおまけにいい男では・・・サルのような男が最大幅の出世をすることこそこれに増す物なし、世間はそう思うでしょうね。

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 豊臣秀吉誕生説いろいろ。「百姓説」父は鉄砲足軽の弥右衛門で、仲(なか)との間に、ともと秀吉を生む。秀吉7歳、弥右衛門が亡くなり、なかは竹阿弥(ちくあみ)と再婚、小一郎と朝日姫を生んだ。(太閤素性記)(イ)しかし、鉄砲が伝来したのは天文12年とのことで、誤伝の部分があると言われている。(ロ) 貧しい農民と言われているが、再婚した竹阿弥の身分からして、中流の名主層であったとも言われている。(ハ) 大徳寺、東福寺過去帖より、なかの子4人全員弥右衛門の子という説もある。(二) なかも刀鍛冶関兼貞(せきかねさだ)の娘ともいわれている。以上定説はないとされているそうです。(ハ)はなかなか興味を惹かれます。小一郎と朝日が実の兄弟となるわけですからね。小一郎の献身ぶりも納得できます。確か以前、中村雅俊が小一郎役をやっていましたから、必然秀吉も男前でなければ。

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 文禄の役で、明軍は平壌を奪還するが碧蹄館の戦いで日本軍に敗北。この段階で戦線が膠着して休戦状態になり、和平交渉が始められた。秀吉は明が降伏したという報告を受け、明の朝廷も秀吉が降伏したという報告を受けていた。ここは大事だと思いますよ。だから、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲などを求めても決して過大な要求とは言えません。当然、明の朝廷の側も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものであるはずがありませんね。明は秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣しましたが、秀吉にすればふざけるな、と言いたくなります。そして、慶長の戦いに入るわけですが、確かに再攻あるを準備して待ち構えていた明・朝鮮の軍は以前より強力であり苦戦はおっしゃるとおりでありました。しかし、秀吉亡くなる直前に、倭城の堅固な守りにて辛うじて持ちこたえた秀吉軍は、泗川の戦いでは勝利をあげたとあります。死の床でこの勝利をもし聞いていたなら、秀吉の喜びが目に写るようであり、子飼い大将連の秀吉を喜ばせようとの戦ぶりが想像されます。江戸幕府に対する朝鮮通信使が派遣されて正式の和平が果たされたのは慶長十二年(1607年)であったとありますが、征夷大将軍家康は「日本国王の金印を授ける」を嬉々として拝受されたのでありましょうか。

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 娯楽因説はいいですね。絵本太閤記などによると「日輪の子」説というのがあるそうですね。これはおもしろいですよ。父は竹阿弥、母は持萩中納言の娘、日吉権現に子供を授けてと祈っておったそうです。ある夜夢の中、日輪フトコロに入るや、たちまち懐妊したとあります。さらにさらに、秀吉は、台湾(高山国)に貢ぎを促した国書に堂々とこのことを書いているんですね。・・・慈母胞胎之時、有瑞夢。其夜己日光満室、・・・使者は胸張ってこの国書を携えて台湾にいったそうですが、政府らしきもの見当たらず空しく帰国したとあります。そうですよ。この時まだ台湾には政府がなかった。秀吉の天下統一はすごいことで、張り切っている秀吉の姿が見えてきそうじゃないですか。

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 貴種流離潭(きしゅりゅうりたん)、これは高貴な生まれの人がいろいろ世の中を漂白して最後成功することを言うそうですね。日ノ本におけるいろいろな貴種流離潭の最後が太閤伝である、と言われている方がおられます。なるほど、太閤は祐筆にいろいろあることないこと書かせたかも知れませんが、そのやり方は非常に明るく、エリート特有の陰険さが全く見られないとの評も読んだことがあります。貴種流離潭と言えば「竹取物語」もそうなんです。かぐや姫が生まれた場所は竹の中で、しかも月より来たことになっています。クライマックスは惜しまれながらも月へ帰って行くのですね。民衆の大いなる期待にこたえる為には、貧しい中から誰も経験したことのない高みに、しかしそこに「日輪から生まれる」ことが、必用不可欠ということを秀吉は知っていたようですね。どうして貴種流離潭が好まれるのか・・・赤裸々なままの人間は尊敬されないのでしょうか。人間らしくていいと思うんですが。

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 当時の人口を2000万とすれば、お米は2000万石取れたとかで数字が非常に似通っています。「立って半畳、寝て1畳」と申しますが、このように人一人が食べるお米は1回1合(2合と言われる方はこの際却下)1日3合が、寝て1畳に当たる訳ですね。そして、人1人が1年間に食べる量が1石だそうです。計算がやりやすいですね。当時の武士と農民の占める人口比率がはっきり解らないので申し訳ありませんが、仮に武士5%とすれば100万石あればそれで充分。そして、そして、5公5民の税負担ならば、1000万石の供出ですね。じゃ、武士の手元に膨大なお米が残ってしまいます。人口比率90%が農民とすれば、1800万の農民人口、食べる為には1800万石が必用です。手元に1000万石有りますから、800万石足りない。武士はそのぶん余っています。余ったお米(武士)→米やさん(町人)→農民が買う?(1石の米のとれる水田の面積を1反と定めたのである。かつて、1反は360坪であったので、1坪は人間1人の1日分の米がとれる面積ということなのである。ただし、豊臣秀吉の太閤検地以来、1反は300坪と定められ現在に至っている・・・)どうして360坪を300坪にしたんでしょうね。天才、秀吉のことですから、きっと合理的理由があったとは思いますが。

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