太閤記に関する覚書 4 Index / Top
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 太閤検地の真の目的・・・土地の私領を無力化し、公(オオヤケ)のものとし、大名の領地内に豊臣、側近大名の領分を配置し、大名の独立性を否定することにある。これによって、各大名は領地を「一時的に公から預かる存在」になってしまいます。当然、旧来の考えにとらわれた大名、秀吉子飼いのものも例外ではない訳ですから、大変評判が悪かったそうであります。逆に石田三成などは積極的に検地を推進しました。この意味で関が原の戦いは封建制を支持する派と絶対主義を掲げる派との激突であったという見方ができそうですね。徳川幕府はこの内、「一時的に公から預かる存在」だけ踏襲し、年貢の使い道は自由、大名領地の中に他の大名領分を配置することもなかった為、各大名の独立性は保たれたが、この為、秀吉の時代を除いて、明治以前、日本に国家は存在しなかったと言われているそうです。戦は自分の経済的地盤と大名の誇りを守ろうとするところに原因がありそうですね。特に関が原で家康についた秀吉子飼いの武将達の心が少しばかり覗けた感がします。秀吉の取ろうとした施策は近代日本の姿そのままであり、その意味で徳川300年を「鎖国」 と呼んだのかも知れません。

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  (もし仮に秀吉が関が原の戦いを家康の立場でしたら)小牧・長久手の例のように、戦をせずとも勝利したでしょう。(小早川秀秋の裏切りがあればこそ)この時代まだ武士道はなかったそうですが、このように、現代においても語られることが解っているなら、秀秋も考えてしまったでしょうね。特に太閤記における司馬氏は容赦なく叩いていますね。(戦い自体は裏切りで勝敗が決したという)私は「秀頼」が大阪城から一歩も出なかったことに、敗因を見つけます。この戦いは表向きは豊臣対徳川でなかった、そのように演出していった家康の勝利であります。もし、秀頼自ら千成ひさごを全面にナポレオン宜しく白馬にまたがり戦場に現れたならば、1瞬にして、勝敗は決したであろうと思っています。(馬に乗れる年であったかどうかの疑問は残りますが)

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 関が原の戦いは開戦時兵力で勝る西軍が敗れるというまれに見る興味深い戦いと思っています。西軍82.000に対し東軍74.000の兵力であったと申します。武断派の七将(加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明)対石田三成を筆頭に、長束正家、増田長盛ら文治派の将達の戦い、いやいや高台院対茶々の確執。いろいろ言われていますね。東軍は、上洛の要請に応じず軍備増強を進める上杉家に、(豊臣家に対し)謀反の兆し有りとみて、武断派の七将を含めた上杉征伐途上という真に皮肉な軍でありました。これは豊臣の命を奉ずる軍なのですからね。対し、石田光成は豊臣軍留守を狙った挙兵と言われてしかたありません。大義名分で劣るように思います。例え家康の本心が豊臣簒奪であったと解っていても、時間をかけるべきであったと。石田光成はおそらく太閤の考えに一番近いものを持っていたでしょう。しかし秀吉がもし彼をして、徳川の防波堤との器を感じておれば、前田利家のように、相応な家禄を与えていたと思います。秀吉は、光成が天下分け目の戦いができる器量と思っていなかった証拠ではないでしょうか。

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 (極西の蛮族たちの質的優位は既に圧倒的であります。)「蛮族」ですか。そう言えば昔、この映画見たことがあります。たしか最後、ドレイク船長が女王からナイトの位を授けられるエンドでした。エゲレスも海賊を頼って戦ったわけです。ところで大阪の陣での大砲(フランキー?)は300門も用意されたんですか? 大阪城天守閣には数発?しか当たらなかったそうではないですか。まだ、錬度が低かったんでしょうか。この時代の外国の様子を時々平行して織り込めると日本のおかれた立場もよく理解できいいですね。蛮族ですか。蛮族ではありませんが、日本には野武士がいました。蜂須賀小六という野武士の頭が手下をつれて この付近を荒らし、矢作橋を通りかかった。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ 日吉丸は「頭をけり、一言のあいさつをしないのは無礼である。わびていけ」と、きっとにらみつけた。太閤記の始まりです。矢作橋は当時無かったそうですが。

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 蜂須賀小六は有名です。嫡子「家政」が讃岐17万石の城主となり、以後蜂須賀家は徳島城主として明治に至ったそうです。一説には彼との出会いがなかったら秀吉の出世はなかったとか。武功夜話には・・・不審の儀もこれあり、乱波の類(間諜)にて候わずや、なんて記述も。蜂須賀家は尾張守護代斯波氏とのつながりがあるともいわれ、名門であったとの説も聞いたことがあります。桶狭間の戦いでの諜報作戦で大きな力になり、その後藤吉郎とともに墨俣一夜城の築城作戦などで活躍しましたが、以前は教科書にも乗っていたそうで驚きです。

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 合戦で、し者が出た場合、武士の割合は1割か1割5分で、残りは領民達であったそうです。そういえば、武田の軍勢300人が石を投げてきた、なんて信長公記にあったような。これは戦となれば、農民が多く参加したということかな。それなら、明智光秀が農民の竹槍でころされたことになっていますが、正規軍にとも言えそうです。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの時、北条一族が領内に発した文書には、領民のうちの15歳以上70歳までの男子全員に出陣を命じたとも。当時の平均寿命はどうなんでしょう。男女とも16歳との説、37歳という説。どうなんでしょう。今の年齢感覚でいくと、もう解らなくなりそうです。

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 「豊臣」・・・織田信長が平氏、徳川家康は源氏が本姓と主張しました。しかし、尾張、三河を本拠にしていた頃の信長と家康は共に藤原姓を名乗っていたのです・・・という一文に出会いましたが、これはどうなんでしょう。もし書かれていたとおりであるとするなら、秀吉の「豊臣」こそ紛れもない真実ということになってしまいます。もともとなかった訳ですからね。

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 サムライと騎士、サムライは言語的には「主人に使える召使」という意味だそうです。当初その社会的地位は低いものでしたが、都の貴族達の無力さが暴露されていく中、ついに武家社会の到来となります。主君はサムライ達に領土を与え、その恩恵の見返りに忠義を手にします。ご恩と奉公が基盤となるこの主従関係は、中世ヨーロッパの領主と家来とが交わした契約、保護と忠誠を尊ぶ「騎士道」と大変似通ったものであります。世界史的視野で見た場合、地球の表裏というべき最大距離幅における二つの地にて、同じような国家形態をめざしていたということは、真に驚くべきことであります。因みに当時日本の周りを見渡しても、古代国家の形からの脱却に成功した国なく、サムライにより日本だけが、世界的先進形態であった中世国家となることができたのです。秀吉はその世界的先進形態を日本にもたらした、世界的なエンペラーと捉えて何の不思議もないと思っています。真にサムライ日本は世界に誇る日本の歴史だとは思いませんか。

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 「歴史とは事件史」其の時代の多くの人達が、貧困や圧制、搾取などの中暗い一生を送ったと思われての先入観が強いのではないでしょうか。「歴史とは事件史」であるという言葉ご存知でしょうか。大きな出来事は記録されますが、日常の些細なことは記録され難いのは古今東西同じでしょうね。例えば、村祭で隣のミヨちゃんと幼なじみのイッちゃんが胸をときめかしていることなど、記録に残るはずもありません。多くの場合大衆は無名であり、その集合体としてしか歴史に登場することはありません。しかし、其の無名の人達が人間として堂々武士に反旗を翻し戦った(一揆)このことは世界の革命の先駆でもあり、これも世界に誇れることであると思っています。いつの時代も民衆の持つしたたかさとパワーは、明るく強いものだと想像しています。現在インターネット時代を経験するところとなり、日記など平気で公開する時代を経験している最中であります。となりのミケねこが何匹子を産んだなどの些細なことまで、後世に残るやも知れませんね。本当の意味の歴史は存外今始まったばかりと言えるかも知れません。

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 ここで、おもしろい事に気づきました。信長は秀吉に天下を渡すと言っていません。また秀吉も家康にそう言ってはいませんよね。例えにいいのが浮かびませんが、その時々の一番強い精子が天下をハラマセタとでも言えるのではないでしょうか。これは、「天下持ち回り」の思想であり、現代においても一流企業の精神ではないかと思います。そのことを恐れた徳川は、将軍後継ぎなき時は、御三家よりなど、幾重にも保険をかけた訳ですね。この「天下持ち回り」の思想を継いで実践したのは、高台院ねねであると考えます。この時代まで女性は神仏から遠ざけられていました。それが、女性も極楽往生ができるんだとの革命的とも言える宗教の勃発がありました。当然女性達は涙を流して喜んだとの記述を見たこともあります。高台院ねねの取った行動の中にこそ、ほんとうの秀吉の真意を見ることができるような気がします。女性が始めて男性と同じ土俵の上に立てた、この画期的とも言える時代を皆さんとお話ししながら旅できることは、現在の世と照らし合わせても大変有意義であると思います。

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 (記録に残るはずもありません。)江戸時代に関してはそれは当たりません。江戸時代は戦争もなく、大量の武士を抱え仕事を与える意味からも行政文書が非常に多く作成されています。町村の役人の書いたもの、庄屋などが記録されたものはあまりに膨大なもので、未だ整理されていないのが現状です。その証拠に、私の近くの図書館でも、江戸時代庄屋さんだった方から寄贈された多くの書籍の整理を今行っていました。整理が終われば、全国からの問い合わせが殺到するとのことでした。

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 この時代和紙が多く漉かれるようになったことが一因であると思います。同時期、西洋ではパピルスの入手が困難であり、羊皮紙は高価であることなどから、その量は日本と比べ物にならなかったと言います。ただ、太平洋戦後地主の没落などによって、多くの書き物が喪失したであろうと思われています。また、書かれた和紙は丈夫であることから、襖の下張りなどに利用されたことなども喪失原因です。これら武士階級以外、地主又は一般の方々の書かれた記録は歴史から見ておもしろくないという流れがあったそうですが、最近では民俗史の研究が盛んになってきており、当時の一般庶民に光が当たってきたことは、すばらしいことだと思います。

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 プレハブ建築の元祖は「黄金の茶室」だったんでしょうか。秀吉の時代が光輝くイメージが強いのは、黄金におうところが大ですね。秀吉自慢のこの茶室は「持ち運びができる」ところに最大の特徴があると思います。天正14年。秀吉は内裏に持ち込んでこの茶室を組み立て、正親町天皇に茶を献じたとの記録があるそうで、翌年には北野大茶会に広く庶民に公開したとのことです。またなんと、朝鮮出兵時はるばる肥前名護屋城内に持ち込んだにいたっては驚きです。そう言えばこの時代の建物は解体移築が可能であったように思います。以前旅行した、琵琶湖竹生島には太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である唐門などを移築させていますが、それはすばらしいものでした。コンクリートでできた建物の解体工事をよく目にしますが、只破壊するだけの荒々しい西洋文化を感じます。和風文化の物を生かし大事にしていこうとする文化風土には優しさを感じますがいかがでしょう。「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を つむ心地して」

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 「月も雲間なきは嫌にて候」雲ひとつなきところにある月より、雲間に浮かぶ月のほうが風情がある、という意味だそうで、村田珠光、室町時代の茶人の説く「わび」の境地であるそうです。その茶風が千利休ら町衆茶人に受け継がれていったそうですね。しかし、彼も足利義政に参仕して、殿中荘厳の茶の湯をたしなみ、のち自らそれを否定して「わび」を説いたそうですから、「黄金の茶室」は茶人の一度は通る道のような気がいたします。草庵の茶・・・それは人里離れた静寂の中にあるより、喧騒の中にある都市部にこそふさわしいものかも知れません。突き詰めて行けば、黄金の中にあってその光に惑わされることなく、静かな「わび」を感ずることができるなら、それが悟りの境地といえるのかも。秀吉が「黄金の茶室」を作った意味は何だったんでしょう。

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 銀閣寺、義政は銀箔を貼りたかったらしいのですが予算がそれを許さなかったとか、いやいや二階半分は銀箔で覆われていたという説もあるそうです。それにしても、「銀閣寺垣」の参道はとてもきれいだったと思います。秀吉治世以前は金はそれ程でなく、彼が天下を取ると同じに大金山の発見があったとか読んだことが、その金山はどこだったのか失念してしまいましたが・・・。それがほんとうとしたら、湧き出るようなゴールドラッシュは秀吉からなんだと思っています。「金の茶室」の意味もこの金に裏付けされた、豊太閤の力を世に示す為だったのかも知れませんね。

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 中国殷の時代、貨幣は「貝」であった。その他の国では「石」や「骨」、「革」、「犬の歯」なども使われた。でもやはり「金貨」「銀貨」「銅貨」がいいに決まっています。何よりきれいですね。・・・天正菱大判は秀吉のつくった大判で金の品位も高く、太閤にふさわしく貨幣史上最も豪華といわれている。大判の上下に菱形の桐極印があるので菱大判と呼ばれている・・・天才秀吉は、この国を「金本位制」にしようという構想があったのかなと想像できませんか?今までの米中心の経済では、揺ぎ無い富を蓄えることはできません。昭和の金本位制復帰は当初人々に期待を込められ歓迎された政策でありましたが、世界恐慌の影響などによって、無残な失敗となつてしまったという歴史がありました。しかしこれより幾百年前、大阪城天守に立つ秀吉が「俺がこの国を富ます!」と自らを豊太閤と呼ぶ姿があった。それが証拠に大阪城落城の際の「竹流金」が昭和10年に大阪淀川から発見されたそうですね。竹の鋳型なら、金塊に竹の節がついていたのかな。まるでかぐや姫伝説を地で行くハナサカ爺さんと言っては、豊太閤に失礼か、明るく景気がいいですね、秀吉は。大阪城の「竹流金」はその時の民衆を十分説得して有り余るものであったと思います。

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 茶は、嵯峨天皇の弘仁年間(空海などが活躍した頃)に宮廷ではすでに飲用されたそうです。団茶を削って煮て飲んだとか。中国の様式そのままであったが、その当時は中国趣味をそのまま受け入れることが教養とされたそうですから、致し方のないことです。武家の間では、栄西が将軍実朝に茶を勧めたとのことです。この頃の茶は無病息災の薬効の側面がおおきかったことは、喫茶養生記に書かれているそうです。「茶は養生の仙茶なり、延命の妙術なり・・・」ですか。日本におけるお茶の歴史は「喫茶養生記」をもってスタートをきったそうです。そしていよいよ、秀吉の時代、堺を中心に力をつけてきた町人社会の中から新しい茶の様式が現れるようになったんでしょう。それにしても、どうして、秀吉と利休はうまくいかなくなったのか。

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 (秀吉は茶席より、酒席のほうを好んだ。)これはおもしろい。只、秀吉は下戸だったと読んだことがあります。しかし賑やかなことが好きそうな秀吉のことですから、宴会はありそうです。酒はお神酒などといって、今でも祀りごとには欠かせないものです。飲めない人にも「お神酒だから一口」などと勧める姿をよく目にします。古代では酒は神に近づく為の重要なものとされていたそうです。非合理的な世界にあっては、人間の神経を少し麻痺させることによって、神に近づけたのかも知れないと思います。町衆による茶は何と言っても「お金もうけ」経済的営みを第一とする町衆に指示されるのは当然であると思います。酔っ払っては勘定ができませんからね。しかし、武家茶というものがあると、教えてもらいましたから何でもひとくくりには考えられないようです。

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 この時代の武士や貴族は昼夜を問わず酒宴ばかりしていたみたいですよ。日記に「沈酔」という言葉がやたら出てくるそうです。京都には、14世紀頃に300軒以上の酒屋があったそうですから、秀吉の時代にはもっと多くの酒屋が並んでいたでしょうね。この時代の酒は濁り酒といいますから、精製前のあの白い酒のことでしょうか。それでしたら飲んだ事ありますが、まるでカルピスのようでした。飲みやすいので調子に乗っていたら、さすがに「沈酔」しました。酒屋は当然幕府からしっかり税を取られたそうです。酒壷の数で計られるので隠しようもありませんね。

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 秀吉は大変茶を大事にしました。「黄金の茶室」はその現れであると、考えられます。秀吉は「わび」と「黄金」の間でこころ揺れたのは確かなようですが、これはそれだけ彼なりに真剣に考えていた証ではないでしょうか。茶は有力大名、堺町衆など当時最裕福な階層のステータスであり、その背景が絢爛豪華であるがゆえに、対極の美、対極の精神として茶の存在意義があったと思います。どちらにしても、大いに茶を広めた秀吉はすごいですし、茶の文化は現代に至るまで多くの日本人のこころを和ませて来ていると思います。

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