源 範頼 源 範頼(のりより)は「蒲の冠者(かばのかんじゃ)」と呼ばれ、平家追討の総大将でありながら、兄頼朝(よりとも)によって、弟義経(よしつね)同様、伊豆修善寺にて無残に殺されたことは、誰もが疑わない正史であると信じられています。しかし、福井県今立町では「範頼は伊豆を逃れてこの地に隠れここに世を終えた」と信じられ、またこれを裏書する幾多の事項が残っているのです。もと福井県今立町町長でもあり、教職者でもありました安達実積氏は源範頼について研究され、これを昭和12年に資料としてまとめられました。先ごろ、この資料に偶然出会うことができました。氏の思考された後を辿ることによって、その志のいくらかにでも近づくことができれば幸いです。

福井県今立郡今立(いまだて)町東庄境(ひがししょうざかい)と朽飯(くだし)地区には、範頼がひそかに伊豆を脱出したという言い伝えがあります。この地区の人々は「お蒲様(おかばさま)」と呼ばれる像を崇拝していますが、これが範頼の像と言われているものです。

「範頼は伊豆で殺されたか!?」
範頼最後の様子を諸書から拾えば、梶原景時の言を用い、結城朝光・梶原景時・仁田忠常等に修善寺を攻めさせた。事急であって範頼防戦したが矢つき、火を放ち自害した。景時灰燼中より首を得た、ということになっています。

しかし、範頼殺害の日時は不明であり、灰燼の中よりの首は確かに範頼のものであったのか、範頼の墓所も長く不明であり、発見は随分後のことであるそうです。

今立町東庄境では数百年来、範頼は伊豆を逃れてこの地に来たり、蒲冠者と称し隠遁したと信じられています。また捨扶持千石を以ってこの地に幽閉されたとの説もありますが、いずれにしろ、この地に蒲の性が多く残り、範頼の墓があり、範頼の妻が建立した寺があり、範頼の木像があり、妻の墓があり、範頼の鎮守の神社があることは事実なのです。もっと驚くことは範頼の子孫28代目その方がこの地に今も住んで居られることではないでしょうか。
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