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←薄墨桜 名称の由来
伝承によると男大迹皇子(第26代継体天皇)がこの地に在住されたころ、桜をこの上もなく愛されましたが、即位のため都に上られる時形見として残されたのが この桜の木であるとつたえられています。皇子在住のころは、桜の色は紅色であったが、都へ上られた後はご縁が遠くなったせいであろうか、次第に薄墨色になり、以来、里人はこれを筐の花「薄墨桜」と呼ぶようになりました。文亀二年(1503)右野森重が、俗風に染まるるのを恐れて、頂上付近の現在地(地籍名・皇谷)に移植し、継体天皇由縁の地としての名勝を伝えています。今立町
孫桜→
越前国守朝倉義景は永禄11年(1568年)織田信長の越前侵攻に備えて、朝倉一門の重臣朝倉出雲守影盛に、一乗谷城の前線基地として北国街道の要衝の地である粟田部城の築城を命じました。命をうけた影盛は三里山山頂に地形を活用し 要害堅固な攻守両用の山城を築き城主になりました。これを記念して皇谷にある継体天皇由縁の「薄墨桜」の新芽を植樹し「孫桜」と命名したと伝えられています。私達、この伝承を守り今日まで大切に保護してきました。樹齢は420年と推定され、ひがん桜であります。毎年薄墨桜と同じ淡いピンク色の花が見事にさきます。花筐公園保勝会
薄墨桜よりのぞむ日野山

2001 4 09