くまさん さるさん「生き物」達

まさかりかついだ金太郎、熊にまたがりお馬のけいこ
     はいしどうどうはいどうどう、はいしどうどうはいどうどう

 懐かしい歌を口ずさみました。実は粟田部の花筐(かきょう)公園には戦後、一早く月の輪熊の動物園があったんです。県内でもめずらしかったはずです。学校から帰るとよく見学に行きました。二頭だったか、子供ごころに大変めずらしくまた親しみを持って眺めた記憶があります。

最近、熊や動物達が里へ降りてきて、大騒ぎの様子がニュースで流れます。しかしどなたも「熊が悪いんじゃない」と分かっていらして、捕獲した熊を山深くへ逃がす場面などを見、こころ温まる思いがします。

 あの青々とした山が憎い・・・と仰る方もおり、雑木を無くした動物達への深い愛情に、片隅からではありますが、こころの中よりの拍手を送っています。全ては戦後の造林の為だそうですが、あの時代苦しい生活の中で動物達のことまで考える余裕などなかったであろうことは容易に想像できることです。

熊やさるなどが地球のことを考えて生活しているとは思われません。考えられるのは人間だけでしょう? これは人間が動物達より優れているということではありません。地球のことを考えるという能力が備わっているだけのことです。しかし、その責任は大変重く、今では動物達の生存権を握ってしまったと言っても過言ではないと。

 ノアの箱舟の話を思いだします。いろんな種類の動物達が大きな舟に入って行きます。人間はその舟の中で特別な存在ではなかったような記憶が。もし今箱舟が必要な事態に直面することがあったなら、ヒトは果たして動物達を連れていく気持が残っているのか。遠い昔の記憶が蘇るのか、考えてしまいます。

日本ではどうでしょう。お釈迦様の涅槃(ねはん)図があります。まわりで泣き悲しむ弟子達とともに多くの動物達もまた泣き悲しむ絵を見て、大変衝撃を受けたことを思いだします。そこには人と動物達との境界は無く、すべて「生き物」としてみごとに描かれています。

 文明とともにますます増長しがちなヒト。純粋で信頼しきった目を持つ動物達。その動物達を裏切らないヒトでありたいと願わずにはおれません。長く培われてきた共存の世界もヒトの考えひとつで一舜で壊れ去る、もろいもろいガラス細工のような世界なのだと。

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