日本の大火  日本の消防 
大名の火事装束





江戸時代の消火(竜吐水と玄蕃桶)






火の見やぐらと七つ道具
1627年
寛永四年九月晦日
横山町より出火して延焼吉原に及ぶ、延焼四十町死者多し
 
1657年
明暦三年振袖火事
死者十万八千
本郷妙法寺から出火西北の大風に煽られ江戸全市を焼く

1668年
寛文八年江戸の大火
二月一日牛込から失火し市ヶ谷麹町を焼き、芝海岸に至る。
二月一日から六日までにこのような大火が数回発生した 士邸二千四百余、寺院百三十余、町屋百三十町を焼く。

1658年(三代家光)
万治元年
定火消(武家消防)制定
旗本(四千石)が長となり与力同心火消卒を指揮
消防器具として籠つるべ、鉄つるべ、手桶、水籠、莚(むしろ)とび口を使用

1721年
享保六年江戸の大火
これと前後して七回に亘り十四万戸を焼失


1730年
享保十五年京都の大火
社寺六七
民家三千五百戸を焼く
1718年(八代吉宗)
享保三年大岡越前守町火消をつくる
享保五年「いろは」四十八組が出来る

1722年
享保七年大名火消出来る
各大名は自衛のため禄高に応じて組織し幕府の命によって市内重要建物の警備に任した

方角火消
江戸城を中心として周辺の武家屋敷を警備した

江戸の華

徳川三百年を通じて延々一里に及ぶ大火は二年に一度の割りに発生、当時の火消は江戸っ子気質を発揮、臥煙に死すことをほこりとして働いたがその消防力は微々たるものであった
従って消防の方法も「火を流す方法であって横幅の広がるのを極力おさえ風下への延焼は運にまかす」よりなかったという
八町五町三町火消

江戸在勤の三百諸侯はそれぞれ禄高に応じて警備区域が定められた
加賀の前田は八丁火消であり今もなお加賀とびの名残を止めている

吉宗は防火対策を積極的にやり瓦葺の家を建てさせ武家に限って土蔵をつくらせ塗屋業を奨励した
1803年
文化三年江戸の大火芝浦町より浅草新堀に至る延長二里死者一千2百

1833年
天保三年八百屋お七悲恋の放火、鈴ケ森の火刑

1834年
天保五年大阪の大火
二万余戸を焼失

1837年
天保八年大阪の大火
大塩平八郎一味の放火で一万八千戸焼く

龍吐水(水鉄砲)
九代将軍家重のとき採用
オランダ人から習う

雲龍水(木製腕用ポンプ)
福岡のからくり儀右衛門発明、昭和時代まで使用
1855年
安政の大地震と大火数
十個所から出火、死者約4千人、江戸の大部が焦土

明治、大正時代一万戸以上の大火は
東京、大阪、函館各市
五千戸以上の大火は
東京、大阪、富山、新潟
一千戸以上の大火、百有余回

明治五年町火消は消防組に改まる
明治七年警視庁創設市内六個所に消防屯所置く

明治九年腕用ポンプ(英)輸入
明治十七年蒸気ポンプ(英)輸入

明治二十七年全国に消防組規則制定
1923年
大正一二年関東大震災
東京は(死者一八、〇〇〇)
一七〇個所より出火して
一三〇個所が大火の因となり一、〇五〇万坪焼く

1934年
昭和九年三月函館大火
二万三千戸焼失、二千名死す
昭和一五年一月静岡市大火、五千戸焼失

昭和二十年全国二百都市の戦災
罹災 一千万人
死者 五〇万人
日本全財産の三分の一を焼く

昭和二二年四月
飯田市大火四千戸焼失
大正二年警視庁に消防官生る
大正三年自動車ポンプ横浜、名古屋輸入
大正八年六大都市に官設消防生る

昭和四年全国消防の御親覧
昭和一四年消防組は警防団と改称さる

(昭和二十年七月一三日、粟田部警察署員、今立郡上池田村千代谷に落下した焼夷弾処理中殉職の記録)

昭和二三年三月消防制度改革され自治体消防となり警察から分離独立、以後警防団は消防団に改組、官設消防は自治体消防に改組、大中都市に消防署設置
昭和八年
北陸三県消防組代表御親閲にて
城崎村、女性消防手

昭和二十年七月十二日
敦賀市、米空軍焼夷弾爆撃により全市街九〇%鳥有に帰す、焼失家屋四、一一九戸死者一一〇名
昭和二十年七月十九日
福井市、同じく死者一、六〇〇名に達し、市街地の九〇%を焼失
昭和二三年六月
福井震災
死者二千
二〇個所から出火七個所が大火の因

昭和二四年一月
能代の大火
三千戸焼失

昭和二七年四月
鳥取の大火
五千七百余戸消失
昭和二四年一〇月現在

全国消防力

消防署 二五〇
常備 一五〇
消防団 一〇、〇六〇
人員 二百万
訓練機関 二一
昭和二三年六月二十八日午後五時
福井大震災市内建物の殆ど全壊、各所で発生した火災は市内中央部にて大火となり、焼失家屋二、六七四戸、圧死者八七六名の外多数の重軽傷者を出した(福井市)丸岡町八六五戸、金津町三〇四戸、松岡町八四戸焼失

福井震災
幸橋通りの火災と逃げ惑う市民

福井県庁前通りの大亀裂
参考資料・福井県消防三十年史