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我倉山田石川麻呂と粟田部

15年ほど前 粟田部商業研究会と言う会がありました。
商店の若手を中心に 元気一ぱいの会でした。
その時 粟田部を紹介する 看板をいくつか立てようということになり
ベニヤ板の大きさの看板にいろいろ 粟田部自慢の名称を書くと言うお手伝いをしました。
いつもよく口にする名前ばかりで 書きやすかったけれど 1つだけ 筆が止まりました。

それが 「蘇我倉山田石川麻呂」との出会いの最初でした。
「そがくらやまだいしかわまろ」 何か普通でないものをその時感じました。

そのことを思い出し調べて見ました。

山田寺

奈良県に山田寺がある。蘇我倉山田石川麻呂 発願により建立された。わが国でもっとも古い寺院に属する。現在は礎石によって往時をしのぶのみ。石川麻呂は、その完成を見ぬうちに、讒言に遭ってこの寺で自殺した。孝徳天皇文化五年のことである。さて この山田寺址に「山田公雪冤碑」が建っている。この碑が書道界では重要視されている。

山田公雪冤碑

立碑 天保12年(1841)。建立者 山田重貞 越前粟田部の人である。
碑陰に建立のいわれが・・・
石川麻呂が讒言に遭い、山田寺で一族と共に自殺したころ、越前に流謫されていた別の一子があった。名を清彦という。山田重貞はこの清彦53代の後裔である。彼はたまたま平家物語を呼んだところ 先祖の山田石川麻呂が叛族となっていることを発見。冤罪をそそぐべく、京都の学者穂井田忠友に相談、連れ立って 山田寺をおとずれた。

碑文に「重貞悄然として感を増し・・・荒煙衰草之間を低回す・・・云々」とある。
その時すぐさま 立碑を決心した。碑文は穂井田忠友、碑石は奈良 城戸町の石屋。高さ108センチ 碑文18行、行32字。碑陰 9行、行29字 山田重貞建


先祖をおもい敬う気持ちがひしひしと伝わってきます。蘇我倉山田石川麻呂の墓が粟田部にあることもおおきに頷けます。粟田部では 石川麻呂の廟は天保元年(1830年)府中の石匠宗兵衛の作と伝わっています。上記 立碑年代と照らしても完全に符合しますね。もしかして子孫は同級生だったMちゃんかも知れない。ちいさいころ いっしょによく遊びました。大きなお屋敷だったと記憶しています。


蘇我倉山田石川麻呂はなぜ冤罪となったか

山田石川麻呂は、竹内宿禰の子、蘇我の石川宿禰七世の孫雄当の子である。
大化の改新で誅殺された蘇我入鹿の従兄弟にあたる。大化の改新の中心は中大兄皇子と中臣鎌足であった。

中臣氏の勢いは物部・大伴氏におよばなかった。蘇我氏討伐にあたり有力な同志として選ばれたのが蘇我倉山田石川麻呂であった。彼は名族蘇我氏の一門ではあったが、入鹿とは仲が悪かった。鎌足は石川麻呂の娘、造姫(みやつこひめ)を中大兄皇子の妃とし、石川麻呂を同志とすることに成功した。

皇極天皇4年、三韓からの進調があったと偽って、入鹿を大極殿におびきよせ誅殺した。このとき石川麻呂は偽の表文を読む役を担当している。孝徳天皇が即位されるや、石川麻呂は右大臣、中臣鎌足は内臣、阿部倉偵梯麻呂は左大臣になった。

石川麻呂の異母弟に身刺(むさし)というのがあり かねて石川麻呂に恨みを持っていた。彼は中大兄皇子に石川麻呂に反逆の心ありと讒言した。中大兄皇子はこれを信じ天皇に訴えた。帝は兵を派して石川麻呂の家を囲ませた。石川麻呂は二人の子供とともに大和の山田へ逃亡した。

大和の山田では、ちょうど石川麻呂の発願で山田寺を建設中であった。そして石川麻呂の長子、輿之(こし)がその監督に当たっていた。彼は一戦を叫んだが石川麻呂は輿之や僧侶をなだめて、「我々は君臣父子の分を守らねばならない。この寺を建立しているのも自分自身のためではなく、天祚の盛んならんことを祈ってのことである。私は讒言はされたが、ここへ来たのは死ぬためにやってきたのだ」といって自ら頸をくくって死んでしまった。

彼に殉死したもの妻子等若干人。その日、身刺がやってきて彼の首をはね死罪になったもの23人、流罪15人であったという。中大兄皇子は間もなく、身刺の讒言であったことを悟り、身刺を左遷した。山田寺は完成されたが雪冤の令はついに下らなかった。


よく読む中国の「三国志」にまけずおとらずの権謀術策が日本でもくりひろげられていたんですね。
これで歴史上の大人物 蘇我倉山田石川麻呂と粟田部の関係がよくわかりました。

 
参考資料 今井陵雪著「書を志す人へ」

2001 5 3 

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